様々な楽しむためのもの、いい換えるといわゆる「娯楽」の多くは、基本的にそれを楽しむ側が、あまりいろいろと考えなくても、ある程度楽しめるように作られています。
たとえば映画を例に挙げると、日本の映画やドラマ、特にテレビの番組を見ると、そのことがよく分かるのですが、まさに至れり尽くせり。
話している内容はすべて字幕で出てくるうえ、笑い声や拍手まで入っているため、どこで笑ってどこで興奮すればいいのかといった点まで、世話を焼いてくれるわけです。
このような、知識や意識が低く、自分で考えたり楽しむ訓練をしなくても楽しめる作りのものが、本当に楽しめるかどうかと言うと、それはまた別の話です 。
想像力でもって膨らませる能力のある人、あるいはそれを楽しみたいというレベルの人にとっては、退屈きわまりないものだったりするわけです。
こうした解説や説明が過剰になったものばかり見ていると、本来は想像力で補っていた部分が不要になるため、想像力を働かせる必要はなくなります。
このようにして、イマジネーションを働かせる能力は、どんどん低下してゆくのです。
たとえば映画を楽しむ場合、日本語の吹き替えだと、英語の音声による日本語の字幕で楽しむ場合に比べ、映画の醍醐味が薄れてしまうのです。
日本語字幕の場合、画面に表示される文字数の制限から、最低限の表現に抑えられています。
つまり足りない部分は、観客は自分の想像力で補いながら見ることになります。
ですからそうした想像力のレベルが低いと、字幕を読むという作業の煩わしさが、想像力を使って楽しむというレベルを上回るため、日本語の吹き替えのほうが、わかりやすく楽しめることになります。
さらに日本語への吹き替え台本を書くライターのこうした「想像力による楽しみ」という点を理解しているかどうかのレベルが、字幕翻訳の人たちのレベルに比べて遙かに低いという点が、さらにこうした傾向に拍車を掛けることになります。
つまり、説明し過ぎた台本を声優が読むことで「喋りすぎた」吹き替えになり、イマジネーションを働かせるスペースが無くなってしまうのです。
日本語の吹き替えと英語の台詞を比べることができる人なら、このことは、よくお分かりになるはずです。
面白い映画は、大体にアタマからすべて説明をすることはなく、分からない部分をあえて残し、その部分に伏線を貼ってあります。
そこでの意味がわからないからこそ「意味がある」わけで「これは、何だと思う?」と提示することで、観客の興味と想像力を刺激してくれるわけです。
面白い映画のイントロというのは、その先で展開されるであろう「未知なるもの」を想像することができるため、ゾクゾクするような興奮を味わうことができます。
このように様々な角度から読み解く楽しみを味わいながら、観客の想像を上回るレベルの意表を突く展開を目のあたりにし、そのアトで一気に「そういうことだったのか・・」という落としどころへ連れて行かれると、もうたまりません。
このように「何をどう楽しむのか?」という行為は、こうした部分を楽むための「感性」を、磨くことも曇らせることも、できるということになります。
楽しむ側があるレベルに達してないと、提供する側の意図や思惑を楽しめないというケースを、我々は毎日のように生活の中で数多く体験しています。
あるレベルを楽しむための感性がない場合、その体験は「面白くない」ものに映ります。
ポイントは何を面白いと感じるかです。
毎日の生活の中でも、注意深く見渡すと、意外な楽しさが隠されていたり、新しい面白さを見つけ出すための糸口が、かすかに見えていたりするものです。
みんなが飛びつくものではなく、大勢が見過ごしているものの中にこそ、そういったものが隠されているのではないでしょうか。
休日こそ、そうしたことを楽む絶好の機会で しょう。
さてどこで何をして楽しみましょうかね?
出典
コメントする