きっかけ
そもそもは、職を失ったのが、今の仕事をすることになった、きっかけでした。
1997年の前半のことです。
今では、こうしたことは当たり前かもしれませんが、他の人と少し違っていたとすれば、それがアメリカに住んでいたときに起こったという点でしょうね。
いってみれば日本の会社から派遣されてシアトルに住んでいたのですが、突然仕事がなくなってみると、どうすれば全くわからない状態になってしまいました。
そのうえ、私を手伝ってくれていた同僚のアメリカ人Jも同時に職を失ったのです。
とても一生懸命に手伝ってくれていたこともあって、何だか私のせいで仕事がなくなったようで、とても申し訳なく、特に奥さんには合わせる顔がありませんでした。
これは後になってわかったことなのですが、まあいってみればある策略に嵌って職を追われたと言った方が正しいのですけどね。
まあそんなことがわかっても、何の助けにもならなかったのですが。
茫然自失とはまさにこのことで、特にカミサンはとてもショックだったようです。
私だってこれから先、どうすればよいのかが全く考えが浮かばないわけです。
日本なら言葉がスカスカ?通じますから、仕事を探せば何とかなったかもしれませんが、英語といったって、中年になってから5年や6年アメリカに住んだからって、ネイティブのようになんて喋れるわけはありませんしね。
第一アメリカ人相手に何かの仕事をするという自信なんて、全くありませんでした。
やることがなくなるというのは、ホント不安になるもので、頭の中が整理できないまま、とにかく家でゴロゴロしていました。
そうしたある日、同じ仕事についていたために、というか私を手伝ってくれていたために仕事を失ったJから電話がかかってきました。
話を聞くとパソコンで、株をやっているというのです。
どこかで、その方法についてのトレーニングを受けているというのですが、私は当時株には興味はなかったため、ウロ返事をして電話を切りました。
ですがまた数日したら電話がかかってきたのです。
「面白いから見に来いよ、どうせ暇なんだろ?」
というわけで、マイクロソフトの本社があるベルビューというエリアにある、オールテックインベストメントというところへ、ノコノコ出かけて行きました。
Jのいいところは、どんなときにもポジティブだという点ですが、そのオフィスへ行くと、大勢のアメリカ人に混じって、何だか結構楽しそうでした。
私は以前一時期、日本で文例集を販売する会社をやっていたことがあったので、パソコンのマウスやキーボードには慣れていましたから、パソコンで何かを操作するということに関しては、全くアレルギーなどがなく、どちらかといえばむしろ得意なくらいでした。
Jは、それまで習ったことについて、熱心にいろいろ説明してくれました。
細かいことは覚えていませんが、とにかくうまくやればパソコンでお金が稼げるとのことで、でもそんなにうまくゆくのかなあって、ちょっとは思ったものの、それよりも「これで稼げたらいいなあ」って思いましたね。
だって仕事がなかったし、他にできることがなかったのですから。
で、結局もう一回見に行ったのですが、この方法を習うには5000ドルかかるらしいのです。
それに5万ドルあればまずは始めることができるというのです。
幸いなことに、歳が歳ですから多少の蓄えはありました。
よく考えてみれば、何か起業しようとしても、5万ドルくらいでは、大したことはできないことくらいは知っていましたしね。
これが、まず一ヶ月のトレーニングを受けることになった、そもそものいきさつでした。
続く・・
きっかけ2
トレーニングでは、まず言葉を理解するのが大変でした。
トレードには専門用語が出てくるのですが、イマイチよくわからないうえに英語ですからねえ。
分からない部分があっても操作は回りの人のを見れば分かるので、まあ細かいところは、分からんでもいいかと、気にしないことにしました。
売買するソフトの売買ウィンドウを10個くらい並べて、上がってゆくものを片っ端から買って、適当なところで売るという、今から思えばとんでもないやり方でしたが、そうやれと教わったのです。
当時はドットコムバブルが始まったばかりで、マーケットが始まると、よく上がりましたから、確かにマーケット開始直後あたりの最初では勝つんですが、下がってくるところでも、同じ調子でやってると、勝った分を吐き出すことになるので、適当なところでやめるわけです。
トレーニングでは、シミュレーションですが、一ヶ月で100万円くらい勝てたので、すぐに実トレードへ移行することにしました。
ですがカミサンが心配したので、1ヶ月で1万ドル(約120万円)負けたらやめる、という約束をしました。
あとで考えると、この歯止めが大きな転機を掴むことになるわけですが、そんなことは、そのときは知る由もありませんでしたけどね。
で実際に始めてみると、1997年の8月、つまり始めた月はマイナス6000ドル弱で終わりました。
おかしいなあ・・何で負けるんだろう・・
翌月の9月はプラス5000ドル弱で、ほらやっぱりうまくゆくじゃん。
10月はマイナス5500ドル弱で、ありゃりゃ?
という出入りの激しいものでした。
シミュレーションでは、売買のウィンドウだけ出していましたが、チャートを見なければ、自分がどこの位置にいるのかがわからないので、見よう見まねでチャートを表示して、それを見ながらはやってはいたのですが、売買する段になると「ガー」と上がってゆくので、それを見て思わずクリックしてしまうんですね。
パブロフの犬です。(笑)
ですから、そのあと上がるかどうかはまさに運任せ状態。
というようななわけですから、どうして負けるのかが分からなかった。
そりゃあ勝てませんわな。
一日トータルで負けると、カミサンに説明するための資料作りを念入りにやるので、帰るのが遅くなるわけです。
ガレージからキッチンへ入ると、必ずカミサンには「どうだったの?」って必ず聞かれますからね。
「いやあ、朝のうちはほらここでこうして500ドル勝ったので、もう一発と思ったら・・」といきさつを説明するわけです。
「仏の顔も三度まで」という言葉がありますが、同じ間違いをやると「この間も同じことを言ってたのにどうしてまた同じ事をやるの?」と渋い顔で言われるわけです。
ごもっとも。
返す言葉がないわけです。
うーん・・なんで同じ事をやっちゃうんだろうねえ。
何を隠そう、自分でも分かりませんでした。
「オレは意外にも自分が思っていた以上に意志が弱い人間だ」ということは、よくわかるようになりましたけどね。(笑)
売買するときは、「勝てる」と思ってクリックするのですが、なかなかそうはいかない。
何故か?
それは、はっきりとした決まりがなかったためです。
そんなことは、自分でもうすうすは分かっていました。
周りのみんなも、それらしいことは言ってましたが、誰一人として確証をもってやっているようには見えませんでした。
みんな、朝になるとトレードフロアへ集まってきて、クリックして、いろいろあってそして一日が終わる。
それの繰り返しでした。
ですが10月にマイナス5500ドル弱負けたあと、ちょっと考え込んでしまいました。
このままではダメだ。
シアトルは西海岸なので時差の関係で、朝6時半からマーケットが始まるため、毎日朝5時には起きるわけです。
そして毎日一生懸命やった挙句が、1ヶ月6000ドルも負けていたら、何やってんだかね。ってなりますよ。
で翌月の11月は月半ばで、すでに5000ドルも負け始めていました。
1ヶ月で1万ドル負けたらやめる、という約束をしていましたから、このまま行けばやめなければなりません。
負けてはいましたが、でもこれって結構楽しいんですね。
よーし、今に勝ってやるからなあ・・って、闘志もフツフツと湧いて来ますし。(笑)
やめないためには、何とか負けないような手を考えなければならないわけです。
自分でもうすうすは分かっていた「はっきりとした決まりがない」という点を何とかしなければと真剣に考えました。
そして、ある考えに辿り着きました。
そうだ!負けなければいいんだ。
勝つこともあるのだから、負けさえしなけば、結果的に勝てるのだ!
オーマイガッ!
続く・・
きっかけ3
負けさえしなけば、結果的に勝てるのだ」とはいっても、いざやってみるとなると、そう簡単なことではありませんでした。
毎回勝とうと思って、エントリーするのですが、終わってみると負けてしまうというのが典型的なパターンでした。
誰も最初から負けるとわかって、トレードをしているバカはいないわけですしね。(笑)
ここでいう「負けさえしなけば」というのは、いわゆる戦略的な面でという意味になります。
よく考えてみるとほとんどの場合、あまり深く考えずというか、試行錯誤の上で決めた方法ではなく、実際には「何となく」売買の条件を決めていることが多かったのです。
「負けさえしなければ」というのは言ってみれば言葉の「あや」であり、実際には「いくらまでの負け」なら「負け」としてガックリ来ないのかという点が大事なのです。
たとえばスカルピングなら、100ドル以上負けた時点で脱出するというように決めることにしました。
今月はこれ以上負けられないという、ターニングポイントに来ている以上、今までのように、ホイホイとクリックして、おいそれと負けるわけには行かなくなっていたわけですしね。
で、DELL
のチャートを見ながら「よしここで買ったとしよう。そしたらどうなるだろうか?」とじっとディスプレイを見ながら考えてみたのです。
しばらくすると、うまく利益が出るポイントまで上昇したのでしたが、実際には買っていないので、儲かったわけではありません。
だが、なぜうまくいったのか?
というわけで、どういうときに買えばいいのかを決めることにしました。
その条件を紙に書いて、それをチェックしてその条件をクリアしていたら、クリックをするというように、少しやり方を変えることにしたのです。
うーん、我ながら大いなる進歩だ。(笑)
もうひとつ変えたのは、現在の収支をエクセルに入れて、リアルタイムで計算することにしたという点でした。
つまりリアルタイムで常に現状を把握しようというわけです。
一ヶ月の利益目標を決めて、それを日割りにして、いくら稼げばいいのかを決めて、勝つとそこでやめる。
そして毎日の収支をつけて、金曜日になると、必ずプラスで終わるように頑張るというわけです。
一日の目標が500ドルで、最初のトレードで400ドル勝ったとすると、あと100ドル勝てばいいわけですから、そのあとで何も危ない橋を渡るという無理をする必要はないわけです。
そうして、いくらのゲインを狙うなら、どういう条件を満たしたときに買えばいいのかというバランスを考えることにしました。
この方法の延長線上で、こういうことをやったこともあります。
木曜日までに、すでに2500ドル勝っているとき、金曜日の地合いがあまりよくなかった場合は、トレードをしないで、2500ドルの勝ちのままで、土日を過ごすことにしたのです。
以前ならできなかったことでした。
トレードでは、普通以上によく考え、慎重に事を運ぶべきだ、ということを学びはじめていたのです。
そしてオープニング数分内でまず100ドルでいいから、まず勝って、ゲームを有利に進めるという作戦を取ることにしました。
これは俗にスカルピングと呼ばれる方法で、エントリーしてから脱出するまでは最高で10分ほど。
短いときは1分で脱出するという方法です。
この方法はゲインこそ少ないのですが、心理的には大いに有利に展開できる方法でした。
最初のゲームで勝てば、次のトレードではこの勝った分をカタに有利に事を運ぶことができるからです。
100ドル勝って次のトレードに臨めば、100ドル負けてもイーブンですからね。
実際にやってみると「100ドル勝って次のトレードに臨めば、100ドル負けてもイーブンだ」ではなく「100ドルを死守して、さらに積み上げるにはどうすればいいのか?」というように考えることができるようになったのです。
この変化は自分でも予想しなかったことで、この変化には我ながら少し驚いたほどです。
どのようにしたら勝てるのか?
大事なのは、それぞれの要素を一つひとつ比較し、複数の条件を満たしたときにエントリーするというルールを決めることでした。
過去の何百ものチャートを調べ上げるという根気の要る仕事でしたが、結果としてそれはあとになって十分に報われることでした。
負けるときも同じで、特にスカルピングの場合は、100ドルのロス以上は取らないと決めたら、あとはチャート上ではなく、レベル2の数字を見ながら、エクセルの数字を見て機械的にロスをとることにしました。
こうした工夫の甲斐あって、その月は6000ドルの負けで何とか終えることができました。
おかげで、何とか翌月にまたトレードを続けることができることになったというわけですが、カミサンは6000ドルの負けという数字を見て、あまり愉快ではなかったようでした。
当然でしょう。
私だって決して愉快ではありませんでしたからね。(笑)
しかし負けをそれ以上増やさない方法を手に入れることができたという、心理的な安心感が手に入ったのは、自分としては6000ドルを遥かに上回る価値のあることでした。
ですが、当時それよりも遥かに頭の痛いことがあったのです。
解任に伴い仕事を失っただけではなく、訴訟問題に直面することになったのです。
勝てないトレードとのダブルパンチは、効きましたね。(笑)
続く・・
きっかけ4
父はもともと、私の渡米には反対でした。
父は私の弟との確執があり、息子は私しかいないという状態で、家族が少なかったからでしょうか。
ですが、私にはコンプレックスがありました。
大学を中退して音楽の道を志したものの、一生を音楽でやって行くには、20歳ころからはじめたのでは間に合わないということに気がつき、自分の才能の見切りをつけて父の仕事を手伝
うことになったのです。
ですが好きで始めたことに対し、途中で挫折してしまったことは、実を言えばかなりショックなことでした。
結婚をして長女ができれば、生活を安定させ向上させてゆかなければなりませんが、楽器演奏だけでは、それはなかなか大変なことでした。
音楽だけが人生ではないわけだし、いわば今まで好きなことをさせてくれた、父への恩返しもしておこうと、考えたのです。
父は大正の終わり頃に、いわば銀のスプーンをくわえて生まれたようなのですが、戦争を体験した世代でもあり、
私とはかなり価値観は違っていました。
仕事上での意見の相違があると、最後には「俺が白といったら黒いもので白くなるのだ」という口調で、かなり厳しいものでした。
最初の結婚生活は途中で破綻し、私とあまり年の変わらない女性と
再婚したのですが、後に家庭裁判所へ、私への相続権廃除の訴えが起こされたのです。
父名義のカイシャは順調でしたが、その順調な業績
にもかかわらず、父の周りでさまざまな感情が渦巻き始めていたのかもしません。
ですが日本を離れてシアトルへ住んでいる私には、知るすべもありませんでした。
努力をしてもなかなか報われないという生活を、音楽を通して10年も続けていた私にとって父の不動産を管理し、大きくしてゆくという世界での努力は、報われる結果を残し、仕事は順調そのものでした。
ですが、これは先祖が残してくれたものがあったからで、私がゼロからはじめたものではなく、父が任せてくれたからできたわけで、いわば私ではなくても誰でもできることでした。
40も過ぎた頃、俺はこのまま歳をとって終わるんだろうなと、まっすぐに伸びた線路の先を眺め、ふとそう思うことがあったのは、金銭的にだけではなく気持ちにも余裕があったからでしょうか。
渡米して5年ほど経過し事業も順調に推移していた1997年のある日、私は突然、3つのカイシャの役職をすべて解任され、アメリカで大海原に投げ出されたしまったのです。
日米の弁護士は「巧妙に仕組まれた相続権争いというお家騒動だ」と同情してくれましたが、とにかく生まれて初めての大変な騒動に、巻き込まれてしまったのです。
相続対策のためもあって、日本で実父がすべての実権を持つような仕組みでしたから、その会長である父がシアトルに派遣していた私を、父側の弁護士
によって解任するなどというのは、いとも簡単なことでした。
その弁護士はいわゆるやり手で、ワシントン大学卒の英語ペラペラ凄腕弁護士だったのですが、お金のためなら家族が揉めようと、喜んで火に油を注ぐようなタイプ
だったのです。
裁判所の廊下で、その弁護士に軽く会釈をしたら、大人気なくそっぽを向くといった按配でした。
「これはまずいなあ・・」
父の代からの弁護士事務所に相談すると、気の毒だと見るに見兼ね、日本サイドの訴訟を、タダ同然で引きうけてくれました。
兵糧攻めにしたら私が日本に戻るだろうというのが相手の弁護士の読みだったようで、請求弁護費用を吊り上げるため、でっち上げたいくつもの裁判をアメリカに起こしたのです。
相手の弁護士にとって、訴訟の内容が嘘か本当かは、どうでもいいことだったのです。
米国の弁護士は訴訟内容を見て、あきれていましたが、とにかくそういう事情でしたから、いたく同情してくれました。
訴訟件数が多ければ多いほど、動くお金が大きくなるわけですから、父は相手の弁護士にとって絶好のカモだったといえるかもしれません。
万が一のために、父側の情報がわかるルートを持っていたのですが、そこからの情報で弁護士の意図は明白でした。
億のお金の動きを徹底的に洗えば、どこかにおかしなところが出てくるはずで、それを元に刑事事件にして私を追い詰め、私の相続権を廃除するという
のが相手の弁護士の作戦だったようですが、最後にその計画は破綻したのです。
それまで私のために力を貸してくれたアメリカ人のJも懸命に助けてくれたのですが、それは「何もやましいことはしていない」という「誇り
」を守るためでもあったのです。
私は自分と彼の家族をも守るため、3年以上の歳月を費やし、自分のそれまでの蓄えはすべて使い果たしました。
私の右腕としてアメリカでの実務をこなして働いてくれていたアメリカ人 J の不正のない働きが、私を救ってくれたのです。
会計事務所を使って徹底調査をしたアメリカの弁護士事務所も、私とJの事業と対しての取り組みは素晴らしいと太鼓判を押してくれました。
結果として日米の弁護士たちの間での私とJの仕事に対する取り組みと、人間性としての評価は、高まったというわけですが、そんなことは経済的に困っていた当時の私にとっては、何の助けにもなりませんでした。
自分が受け継ぐ事業で、不正をするという動機のなさに加え、相手の弁護士の主張するロジックからは、こうした訴訟の本当の狙いが何なのかは、世間のことが少しでもわかる大人なら、誰にでもわかる単純なものでした。
本当の狙いを証明する物的証拠がないだけだったのです。
最後の訴訟となった家庭裁判所への相続権廃除の訴えは却下され、裁判所側からも同情される始末でした。
結局は最後にアメリカの弁護士事務所は、最後の相続権廃除が却下されたことを知ると「こうなったらお父さんの社会的な権利を剥奪し、あなたがすべてをコントロールできるから、訴えてはどうですか」と薦められたのです。
ですが日本側の父と同じ年代の弁護士さんからは、こう言われました。
「今回のことは、お父さんの道楽だと思って我慢をしなさい、そうでないとあなたもお父さんと同じになってしまいますよ」
お金はアメリカの弁護士絡みの訴訟で使い果たし、私に残ったのは、共に苦難を過ごした J との固い友情と、3年以上にわたる訴訟期間を通じて自分のものにした、自分ならではの「トレード手法」だけでした。
きっかけ5
幾ばくかのお金と、苦難を通して結びつきが強くなった家族と友人を除いてすべてを失うなどということは、なかなか経験できないことです。
というよりも、通常はそういう事態になることを避けるのが普通です。
この歳になって、そうしたことに自分が直面すると、誰が想像できたでしょうか。
不思議なことに仕事を失ってみると、仕事を失う前に持つだろうと想像していた「不安」という感覚は意外にありませんでした。
それどころではないという点に加え、目の前に熱中すべきことがあったからでしょうか。
トレードに取り組むと同時に、自分を客観的に見ることができるようにと、ネット上でいわゆる日記を付け始めたのは、1997年にトレードを始めた頃でした。
過去の日記を読み返すと、1998年6月30日には、次のように書いていました。
アクセス 980630 Tues.
アクセス数が1万を突破した。昨年の10月以来9ヶ月だから、一日平均約37人がトップページへアクセスされている。
カウンターは公開していないが、主要ページへのアクセス数ではHe's Club
がトップページと同じ程度で、「経済情報リンク」へのアクセスも多いようだ。
このサイトはインターネットを道具として使うためのテストケースであり、自分のためのいわゆるポータルサイトで特に宣伝のようなことはをしていないのに、定期的にご覧いただけるというのは、嬉しいものです。
自分では、少なくとも1年間は続けてみようと考えて始めたことなので、とても励みになる。。
誰でもそうだと思いますが、自分の仕事や出来事を家族や友人と話すときと、書くときとでは、大きく違う点があります。
誰かと話すときというのは、無意識のうちに相手からの反応を見ながら、自分が反応をするというスタイルでコミュニケーションを進めます。
この「進め方」は相手を説得する時であれ、ただ単にたわいのない話をするときであれ同じです。
つまり話の流れによっては、相手の反応によっては、自分が意図した方向と違う方向へ展開するということはよくあることです。
ですが、日記を書く場合は、相手からの反応によって、書いている途中で影響されるということはありません。
これは結果として、とても大きな違いとなります。
ですから、一日の出来事を誰かに「話す」ときと、日記へ「書く」ときとでは、テーマが違うなどということは当たり前に起こります。
もし同じテーマであったとしても、そこでの展開と最後の終わり方は「話す」と「書く」とでは全く違ったものになることの方が多いはずです。
「書く」というのは頭の中を整理しながら進める、というスタイルがとても向いている方法です。
話すときというのはエモーショナルな感情の部分が優先され、書くときというのは論理的な冷静さの部分を使います。
人はこうした点をどれくらい意識するのかという程度の違いはあっても、自然にこの二つをうまく使い分けることで、精神的なバランスを取ることができるのです。
自分が予期しない、そして、それまでの考え方では対応できないことにぶつかった時には、そこでどう考え、精神的にどうコントロールすればいいのかという点について、本能的に自分を守るため全力を挙げて考え始めるのです。
これは全く予想だにしなかった点でした。
私はそれまでにいわゆる「日記」を書くという経験は全くありませんでしたし、また書きたいと思ったことはなかったのです。
ですが、いま冷静に考えてみると、日記をつけ始めた時期をみると、偶然にも仕事を失った時期と一致するのです。
こういう分析は今だからできることで、当時そうしたことを考えて日記をつけ始めたわけではありませんでした。
そうした冷静さを持てるような状態ではありませんでしたからね。
別のニュアンスでいえば自分の「正気を保ち続けるため」に見られていることを意識して「孤立」することを防ぎたい、と本能的に考えたのかもしれません。
私が何かを文字にして書くというきっかけになった、いわゆるルーツを辿ってみるとどうやら、このあたりがその起源なのではないかと思います。
トレードの世界では、自分が下した結果が、まさに鏡へ映すかのように、ストレートに返ってきます。
自分の精神状態を、認めたくないほど赤裸々に突きつけてくるのです。
将来の経済的な基盤を、安心して預けることができるものは何か?
それは人間の組織によってもたらされる、何らかの個人的な意図や裏切りなどという要素が入り込む余地の全くない、トレードという世界にあったのです。
「あの出来事」のあとで、すぐにこうした機会に出会えたというのは、偶然というには余りにも出来すぎているような気がしてなりません。
とにかくこうして考えを巡らせることができるのも、過去の日記があったからこそ。
昔の日記を読み返してゆくと、文字では表わせなかった、いろいろな想いが蘇ってきます。
組織によって経済的な基盤を、決定的に左右されることを、非常に極端なカタチで身をもって体験したことは、日記だけではなく、その後の考え方など、様々な部分へ色濃く影を落としています。
ですが、そのことに気がつくには、ある程度の時間が必要でした。
日記に記された出来事や取り上げている事柄、さらには文字が羅列されている行間からは、トレードに強く傾倒し、情熱を持つことへと繋がってゆく足跡を辿ることができます。
そしてその足跡は、日記が書かれた時から、時間が経過すればするほど、「あぶり絵」のごとく、鮮明に浮かび上がってくるのです。
きっかけ6
仕事を失い、自分は今後これで生計を立ててゆかなければならない、という精神状態に追い込まれたとき、心の平静を保つことなど、とてもできませんでした。
ですがロスを出した体験と、ある感覚が共通していることには、うすうす気がついていました。
頭の中では「本来こうするべきだ」ということが分かっているにもかかわらず、焦りやもっと大きく儲けたいという、途中で湧き起こる不純な考えに傾いたとき、それはロスに繋がるのです。
コンスタントに利益を出すことはできなくても、勝ったり負けたりを繰り返しているうちに、このことだけは、トレードを続けてゆくうちに、だんだんと確信を持てるようになってきました。
事前に決めたことを、守れない。
自分はそういう人間ではないと、何となく思っていたことが、トレードをすることで実はそうではないということをいやでも、認めざるをえなくなったのです。
これはとてもショックでした。
ですがそれとは引き替えに少し糸口が見えるような気がしたのです。
つまり「ここ」を何とかすれば、トレードにも影響を及ぼすのではないだろうかということを、何となく感じるようになっていたのです。
ですが具体的に何をどこから、始めればいいのかは分かりませんでした。
チャートを分析するためにはRSI、CCI、ADXなどの様々なツールがあります。
わかりやすくいえば買われ過ぎや、売られ過ぎを示すインジケータなどのことなのですが、誰もがこうした道具を組み合わせれば、勝てる方法が分かるだろうと考えます。
ですがこうしたそれぞれの要素には様々な読み方があり、深読みをすればするほど、分からなくなるという、落とし穴も開いているのです。
後にあるトレードの教育メソッドを元にして教えるという経験をするのですが、そのとき漠然と「これではなかなか勝てないな」と感じたことがあります。
トレードでは売買の手法が多過ぎても、また複雑過ぎても、うまくゆかないのです。
このことは、アメリカで開催されていたトレーディングエキスポという、トレード業界が開催するイベントへ参加し、いろいろな教育システムを見れば見るほど、そうした思いを強く抱くようになりました。
つまり「本来こうするべきだ」ということがシンプルでわかりやすくないと、複雑であればあるほど途中でいろいろな考えが湧き起こってくるものなのです。
シンプルに考えることがよいことは分かっていても、実際の物事でそれを応用して、結果に結びつけるいうのは、そう簡単なことではありません。
ですが、それができているかどうかの判定は簡単でした。
まず目に見えて経済的自給力が身についてきます。
そしてそれは人に対する忍耐力と、寛容さと真の慈悲深さをも育むのです。
しかしそうした能力が備わっていなければ、環境や生活をよくしようと努力をしても、それを妨害する方向へしか働かないのです。
多くの人は努力で環境や生活をよくしようという考えにはとても積極的なのですが、自分自身の考えを変えようとすることには消極的なため、変える必要がないと考えがちです。
実はそれこそが、環境や生活を改善できない大きな理由だったのです。
自分が望んでいることが結果を引き寄せるのではなく、自分が考え、決断したことが結果を引き寄せるため、考え方やルールが複雑だと迷いが生じ、それが結果に反映されてしまいます。
私が選んだ仕事は、考えと、決断した行動が調和したときには、利益という結果が待つという、とてもわかりやすい世界です。
ですが、私が体験してきた世界では類を見ないものだったため、そのことがなかなか感覚として掴めなかったのです。
こうした能力を身につける上で障害となっているのは多くの場合、手放さなくてはならないものが分からないことにあります。
社会人となり、それなりにではあっても、毎日の生活がすでにできている場合、自分の考えを変えるには、何らかの自己犠牲を払わなければなりません。
たとえば、健康に関しての慢性的な問題を抱えている大多数の人は、健康のためには様々な種類のコストを払うことはしても、自分が食べるものに関しての「欲望」を犠牲にしようとはしないのです。
もし手放さなくてはならないものが分かっている場合、それは行動力のなさが問題の原因となっているのです。
犠牲を払い失うことを受け入れる勇気がなければ、行動へ結びつけることはできません。
せっかくよい結果に目標を定めているにもかかわらず、行動とそぐわない考えによって、自らを妨害していることに、気がつかないのです。
心の総合的な状態は、外面からは、なかなかわからないものです。
幸せの条件はさまざまですが、正直そうに見えるのに、貧しさに苦しむ人がいます。
ですが「正直すぎるからお金が貯まらない」という見方は表面的なものです。
不正直そうだが裕福な人であっても、正直そうに見える人にはない美徳を、数多く備えているかも知れないのです。
「よい考え方ばかりをしているから悩みや苦労が多い」というのは、自分を変えることを放棄した人には、とても都合のよい考え方です。
感情的なバランスを取るため、人はあらゆる考え方を動員し、自分がラクになる考えを信じ込みたくなります。
同じ境遇の人が多ければ、このような都合のよい考えは信仰のように崇められ、それはあたかも伝染病のように瞬く間に広がり、深く拡散してゆくのです。
苦悩は自らの何らかの誤った考えや行動から生まれるもので、他人から影響を受けてもたらされる結果ではないことを忘れてはなりません。
苦労や悩みは自分の考え方のルールと行動がうまく調和していない、というサインなのです。
それまでのトレード以外の体験から、うまく事が運ばないのは、自分が要因ではなく、他に原因があるのだと考えていたのです。
特に人間という相手がいる場合「その相手に原因があろうと、相手と関わることを自分が選択した以上その原因は自分にある」とは考えたくないものです。
ですがトレードの世界では、その考え方は通用しないことがわかってきたのです。
この部分の考え方を変えるには、少なからぬ授業料が必要でした。
授業料を抑えるためには、考え方を改めるのが、最も効果的な方法だったのです。
このことに、何故早く気がつかなかったのか?
とにかく、それに気づいたこと自体、目から鱗でした。
一度この考え方を受け入れてみると、その効果はトレードの世界だけで通用するだけなく、それ以外の物事にも実はとても「良く効くもの」なのだということを、身をもって知ることになりました。
人間関係においても然りです。
いっとき「距離」を詰めることだけを考えた、いわば車間距離の少ない行動は、ギクシャクしがちです。
余り近づくよりも、ある程度距離を置いた行動の方が、追い越すときにも、事故を避けるときにもはるかにうまくゆきます。
こうした見方をすることで、それまでとは同じものを見ても、見えるものが違ってきたのです。
ですがその効果は即効というわけではありませんでした。
それはジワジワとまさにボディーブローのように、効いてくる種類のものだったのです。
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