奇跡の治療薬その1に引き続き、なぜ「奇跡の治療薬」は世に出なかったのか?
それは利権との闘いでした。
動物実験を得た後、ヒトに対しての臨床試験が開始されたのですが、従来の抗がん剤とは明らかに異なり、医師たちも驚くような好成績を示したことでベンズアルデヒドに期待する声が高くなってゆきました。
そこで、各大学による臨床試験の結果を発表するところまで漕ぎ着けました。
すると記者会見を翌日に控え、突然、厚生省(現・厚生労働省)より何の説明もなしに中止命令が出されたのです。
そればかりか翌年の1985年にはこれまで共に研究を続け、医薬品化を夢みていた同志ともいうべく科研製薬より、 一方的に注射薬や内服薬、坐薬の製造が打ち切られてしまったのです。
突然のお達しに東風博士だけではなく、それまで臨床試験を進めてきた各大学病院の医師たちも愕然としました。
しかし、肝心の薬の製造が打ち切られたのでは、臨床に使用する薬の供給もストップしてしまうわけです。
どんなに抗がん作用があると手応えを感じていても、それ以上の臨床を続けることは不可能となりました。
何より、希望を持って臨床試験に参加していた患者さんを絶望させる結果となったのです。
特に注射薬(BG)は有効性が高いことが臨床試験で明らかになっていたため、それまで投与されて順調に改善効果が見られた患者さんからは怒りの声が上がりました。
当時、ベンズアルデヒドの治療薬は、ようやく大規模な臨床試験までこぎつけ、その結果によっては厚生省の認可を受け、数年後には正式な治療薬として認められる可能性さえあったのです。
むしろ臨床に関わった医師や研究者たちは、そのようになると確信し、また期待もしていたといいます。
それが、理由を明らかにされないまま記者会見を中止させられたばかりか、薬の製造そのものまで打ち切られる事態となりました。
「せめて理由だけでも間かせてはしい」という東風博士の要望に対して、厚生省からは何の返答もなかったといいます。
原因は株価の急騰だった?
それから32年の月日が流れ、2017 (平成29)年3月に、ある政党の公設秘書が、当時の国会議事録を調べてくださり、ようやく事の真相が明らかとなりました。
それによると、ある証券会社が「抗がん剤の特効薬が開発され、それは奇跡的な効果があり、世界的な発見のため、間もなく国際癌学会でも発表される」というような内容を報じたというものでした。
マスコミは当然のことながらそのニュースに飛びつき、新聞や雑誌だけではなく、NHKでも放映されたのです。
そのため、科研製薬の株価が高騰。
つまり、証券会社が株価をつり上げる操作に走ったということです。
その鎮静化を図るために記者会見を中止させたうえ、科研製薬に手を引かせたということが判明したのです。
しかも、政府主導、つまり薬のことを何も知らない政治家たちで事が決められ、厚生省はそれにただ従ったにすぎなかったというオチまでついていました。
当時、東風博士の研究に興味を持った毎日新間の記者、小泉貞彦氏が、何度も取材に訪れ、ベンズアルデヒドに関する詳細をまとめた本まで出版しています。
その本によると、1978 (昭和53)年にもベンズアルデヒドが買い材料になって株価の急騰が起きたということでした。
その年の初めには300円だった科研製薬の株価が、10月には14倍の4020円という史上初の高値をつけたそうです。
このときマスコミは「がん新薬に兜町踊る」「兜町が騒ぐ薬はマユツパの抗がん剤」などと騒ぐばかりで、肝心のベンズアルデヒドについては東風博士を取材した記者が1人も存在せず、単なる憶測で「学問的根拠は何もない」と糾弾していました。
このマスコミ騒動によって一瞬にして「まやかしの薬」というイメージがついたことで、その後の科研製薬の株価は下がり続け、1980 (昭和55)年の暮れには810円という安値になっていました。
しかし、この年に東風博士が国際癌学会で成果を発表し、翌年には12の大学病院で臨床試験が開始されたことを受け、再び科研製薬の株価が急騰することとなり、最終的には4530円という前回の4020円を上回る高値がついたといいます。
そこで、政府が介入したというわけです。
もともと科研製薬は国策としてつくられた財団法人・理化学研究所から改組された製薬会社ですから、薬の研究開発には専門家として真剣に取り組んでいたものの、利益を出すことにはそれほど熱心とは言い難いところがあったようです。
それが、ベンズアルデヒドで思いのほか株価が上がったのは喜ばしい反面、政府の意向も受け入れやすい体質があったと考えられました。
さらに、従来の抗がん剤とは比べものにならない効果の高さで「奇跡の治療薬」とまでいわれたとあっては、他の製薬会社が黙っているはずがありません。
一つの薬を誕生させるまでには、何年にもわたる研究と膨大な費用を要します。
当時も新たな抗がん剤の開発には、各製薬会社がしのぎを削って研究していました。
ですからべンズアルデヒドの治療薬が誕生すれば、それまで続けてきた新薬の開発が露と消える恐れがありました。
何より、何年にわたって注ぎ込んできた莫大な研究開発費が回収できなくなります。
製薬会社は、大学病院と共同研究することで臨床試験もスムーズに行えるというメリットがあります。
当然、そこには多くの医師や研究者も絡んできますので、副作用がないというベンズアルデヒドは目の上のタンコプとなっていました。
早く潰しておくに越したことはないという心理が働いたとしても何ら不思議ではありません。
なぜなら、薬が世に出れば全国の医療機関で使用されるようになるからです。
その業の効果が高ければ、それだけ治療に用いる医師も増えるわけで、数年後には開発に投入した費用が回収でき、特許に守られて何年も莫大な利益を生む可能性があります。
薬は患者さんを救うためにあり、より効果のある薬を使って治すのが医師の役目です。
それにもかかわらず、より効果のある薬が誕生しようとしているのを潰そうとするのは、本末転倒というものです。
権威ある米国立がん研究所の機関誌に論文が掲載
科研製薬が手を引いた時期と同じ1985 (昭和60)年、かねてより投稿していた東風博士の論文(前章参照)が、米国立がん研究所の機関誌『キャンサー・トリートメント・リポーツ」(5月号)に掲載されました。
同誌は、がん治療の情報については世界的な権威のあるもので、それまでに取り上げられた日本で開発された新薬は3、4例しかなかったほどでした。
それくらい審査が厳しく、掲載されるにはかなリハードルが高いことで知られていた信頼できる機関誌だけに、東風博士の論文が掲載されたということは、いわば″お墨付き多をいただいたようなもので、大変意義のあることといえるでしょう。
実は、それが初めてではなく、5年前の『キャンサー・トリートメント・リポーツ」(1月号)にも論文が掲載されたことがありました。
そのときはベンズアルデヒドの錠剤(CDBA)による治療結果でしたが、かなり注目されたと聞き及んでいます。
それからさらに改善された静脈注射(BG)による臨床レポートが、1985年の「キャンサー・トリートメント・リポーツ』(5月号)に掲載されたのです。
ただ、このときは掲載が決まってから、実際に掲載されるまでには半年もの時間を要しました。
掲載が決まったのは1984 (昭和59)年のH月で、当時の編集長より「あなたの原稿は最終的に採用と決まり、近い号に掲載が予定されている」というサイン入りの文書が東風博士のもとに届きました。
5月になってようやく機関誌に掲載され、それが日本に届きました。
これは東風博士にとって、それまでの約20年にわたるベンズアルデヒドの研究と治療の成果をまとめたものでした。
それが、米国とはいえ公の機関に認められたわけですから、さぞ嬉しかったことでしょう。
また、日¨本でも正当に評価してほしいと思ったに違いありません。
この権威ある機関誌に2回も掲載されたことで、海外の新間はニュースとして大きく取り上げ、ベンズアルデヒドを研究する学者が現れたといいます。
ところが、日本での反応は違っていました。
それまでの株価高騰による騒ぎの影響か、ニュースになるどころか、記事として取り上げた新聞もわずかで、その扱いも目立たないほど小さい数行程度だったそうです。
東風博士は、国際的な場で認められれば風向きも変わるかもしれないと期待していました。
しかし、それまでとは打って変わって世間の目は冷たく、科研製薬も薬の製造を頑なに拒み、再開させることはありませんでした。
諦めずに奔走、そして大手製薬会社へ協力を依頼
一度は脚光を浴び、日本中から注目されたベンズアルデヒドでしたが、政府によって薬の製造をストツプされたという噂は瞬く間に医学界を駆け巡り、それまで研究を支持していた医師たちも、手のひらを返したように離れていきました。
それでも、主治医から見放されたがん患者さんたちが、東風博士の治療を求めて全国から訪れてきましたので、薬をつくる必要に迫られていました。
そこで、東風夫妻は以前のようにイチジクを大量に買い付け、再び手作業で抽出液をつくり続けながら、他の製薬会社に協力を求めて奔走しました。
しかし、どこの製薬会社からも断られ、協力してくれるところは見つかりませんでした。
その理由が「東風博士とは関わりたくない」というものでしたので、関わって不利益が自分たちにも及ぶのを恐れてのことだったと推測されました。
それでも、諦めることなく製薬会社を当たり続け、ようやく協力を取りつけたのが明治製薬でした。
明治製菓というと、今ではお菓子の会社として有名ですが、 一方では″カバくんマーク″で知られるうがい薬をはじめ、多くの医薬品を製造しています。
実は、東風博士が横浜医科大学の教授時代に開発した、結核の治療薬であるエスペリンの研究に協力してくれたのも、当時の明治製菓社長である中川赳氏だったのです。
その後、東風博士は渡米し、その間に臨床試験は中断されてしまいました。
こうした縁もあり、信頼関係は築かれていたことで、明治製菓よリベンズアルデヒドの治療薬の製造だけではなく、アスコルビン酸を加えた新たな治療薬(SBA)の開発にも協力してもらえることとなりました。
それが、定かではありませんが1987 (昭和62)年頃のことだったようです。
この新たな治療薬の構想は、当時カリフォルニア大学海洋研究所の所長だったアンドリュー・A ・ベンソン氏のアドバイスによるものでした。
ベンソン教授といえば、光合成のメヵニズムの発見者として世界的に知られる植物生物学の研究者です。
昭和天皇がかつて同研究所を訪間された際には、説明役を務めたこともありました。
そのベンソン教授が、たまたま三菱化成生命科学研究所(1972年にベンズアルデヒドの研究に参加していた)から遺伝子工学の研究で派遣されていた坂口健二博士を通じてベンズアルデヒドと東風博士のことを知って以来、強い関心を持ち続け影で支援してくれていたのです。
キャンサー・トリートメント・リポーツへの論文投稿を勧めてくれたのも、ベンソン教授だったのです。
来日した際は、東風夫妻のもとに足を運んで下さり、ベンズアルデヒドに関する今後の研究についてもいろいろ話していたそうです。
また、病院の玄関先に置いてあった大きな石灯籠を気に入って「面白い」と絶賛するもので、後日ベンソン教授のもとに石灯籠を船
便でお送りしたといいます。
感激したベンソン教授から「毎朝、新間を取りに出ると灯籠が目に入るので楽しい気分になります。我が家を訪ねた人たちも、みんな驚いています。その反応を見るのが、また実に面白い。私たちの間では″コチ灯籠″と呼んでいるんですよ」と、お礼の言葉をいただいたそうです。
こうして交流を深めていった中で、ベンズアルデヒドにアスコルビン酸というビタミンC化合物を加えた新たな治療薬をつくってはどうかと提案されたのです。
アスコルビン酸には抗酸化作用があり、がん治療に大量投与する方法が開発されていましたので、ベンズアルデヒドとの相乗効果が大いに期待されたのです。
そこで、明治製薬の協力のもと、アスコルビン酸を加えた注射薬(SBA)の開発が進められ、完成しました。
基礎実験、動物実験でも有効性が確認され、いよいよ臨床試験に入る段階を迎えることができたのです。
このとき、中川社長と固く握手を交わすだけで、東風博士は万感胸に迫って言葉が出なかったといいます。
これまでの努力が報われると、奥様も涙が止まらなかったそうです。
社長交代で再び奈落の底に突き落とされる
ベンズアルデヒドの新薬(SBA)は、これまでのものよりさらに効果が期待できると、東風博士だけではなく明治製菓でも確信していました。ですから早く臨床試験に入って製品化したいと、誰もが考えていました。
ところが、タイミングが悪く、中川氏が定年を迎えると状況は一変しました。
新社長に代わった途端に明治製菓の体制が変わり、なんと1991 (平成3)年に入って一方的にベンズアルデヒドの研究協力を打ち切られてしまったのです。
さらには、明治製菓が協力したすべての研究データを東風博士に譲渡するので、この件について明治製菓は一切関与していないことにしてはしい、と言い残して去って行ったのでした。
そこには、当時のがん治療において国内で大きな影響力を持っていた人たちの「忠告」があったと聞き及んでいます。
つまり、圧力がかかったというわけです。
東風博士は、科研製薬から薬の製造を止められてからも臨床研究を続けていましたので、その成果をたびたび日本癌学会をはじめ、さまざまな学会や医学雑誌に論文を送っていました。
しかし、以前のようにはなかなか取り上げてもらえなかったのです。
ベンズアルデヒドの治療薬そのものに効果がないと、正当に評価された結果であれば、東風博士のことですから冷たい対応も甘んじて受けたと思いますし、それを糧にしてさらに研究を重ねて改善したに違いありません。
しかし、証券会社の株価操作に端を発し、面白おかしく騒ぎ立てた一部の週刊誌による悪意の誘導や時の権力など、本人にはどうすることもできない力によって潰されたのであれば不本意であり、患者さんにとってもこんな不幸なことはありません。
それでも患者さんのがんは治っていた
明治製菓が手を引いて以降、もはや協力してくれる製薬会社は皆無と思われました。
しかし、臨床試験寸前まできていたアスコルビン酸を加えた注射薬(SBA)が手元に残されていたため、東風博士主導で臨床試験を行うようになりました。
例えば、70代の女性は、大学病院で舌がんと診断され、東風博士の病院へ訪れました。
初診時、舌が赤く腫れていました。SBAによる治療を開始し、1週間過ぎた頃から舌下が次第に腫れてきて、1カ月が過ぎた頃には顎の下まで腫れてきました。
2カ月を過ぎるころには、顎の下がテニスポール大になり、ペリカンのような形相になっていました。
疼痛や発熱などは訴えていませんでしたが、日常生活に支障をきたしているのは明らかでした。
ところが、SBAによる治療を3カ月近く続けたある日、とても信じられない現象が起こりました。
突然、顎下の皮膚が2センチくらい裂け、中から膿と一緒に1.2センチ大のクルミ状の塊が20個ほど出てきたのです。
それと同時に、ペリカンのように腫れていた部分が萎んで、普通の状態に戻っていたのです。
裂けた部分にはガーゼを入れて交換しながら数日様子を見ていると、自然と傷口が塞がって治癒していきました。
がんが、このような治癒経過をとるのを初めて目の当たりにした東風夫妻は大変驚き、後々も話していたほど強く印象に残っていた
ようです。
この患者さんはその後、健康を取り戻して数年後に天寿を全うされたのです。
孤軍奮闘
世間の風当たりも落ち着いて誰もが忘れかけていた2005 (平成17)年、ようやく製造の依頼を受けてくれる製薬会社が現れました。それが、現在も内服薬(CDBA)の製造を続けてくれている千葉県習志野にある自鳥製薬です。
そうした中、正規の医薬品として厚生労働省の認可は受けていないにもかかわらず、実際に患者さんに投与していることが、後にトラブルを起こす可能性があるとアドバイスしてくれる方がいました。
将来性のある薬であるがゆえに、正式な手順を踏まなければ否定的な人たちに足元をすくわれる危険があるというのが、その理由でした。
その方は、がんの治療薬を1000人という規模で研究しているだけに、法的にも倫的にも想定されるさまざまなトラブルを熟知していました。
そこで、科研製薬との研究で安全性が確認されている内服薬(CDBA)と坐薬であれば、医師主導の臨床研究という形で引き続き投与しても問題ないということで、それ以降は内服薬と坐薬による治療を行うようになりました。
また、使用する薬はGMP基準の設備で製造しました。
GMPとは、医薬品等の製造管理および品質管理に関する基準のことで、医薬品を製造する者が守らなければならない内容が厳しく定められています。
これに則ってベンズアルデヒドの内服薬と坐薬は現在も、原末の製造は自鳥製薬、カプセル化はサンカプセル、坐薬化は雪の元で製造されています。
したがって、注射薬(BG)は使えなくなり、最も有効性が高いと期待されていたアスコルビン酸を加えた注射薬(SBA)も、第二者機関での臨床試験が行われていませんので事実上封印されることとなりました。
東風博士の臨床研究によってベンズアルデヒドの治療薬の有効性、安全性は確認されていますが、なぜ効果があるのかという作用機序については謎が多く、その解明には至りませんでした。
そこを、反対勢力に突かれてしまったのです。
誰もが納得するメカニズムの解明が、治療薬を世に出すための大きな課題となりました。
そんなとき、東風博士が脳梗塞で倒れてしまったのです。
歩行障害となり、徐々に全身状態が低下していきましたが入院はせず、自宅で奥様が介護をなさっていました。それが2007 (平成19)年のことです。
時代背景の違いがエビデンスの追求を遅らせた要因に
すでにSBA治療薬は姿を消しており、ベンズアルデヒドの治療薬は内服薬と坐薬しかありませんでした。
しかし、よくよく考えてみると、東風博士がベンズアルデヒドの治療薬を研究・開発し、臨床試験を始めた頃と現代では、時代背景が大きく異なります。
まず、東風博士が旧約聖書に書かれているイチジクからヒントを得た時期は、いま皆さんが当たり前に利用している「国民皆保険制度」が設定された1961 (昭和36)年のことでした。
当時の主な疾患は感染症で、だからこそ東風博士も最初は結核治療のための専門病院を建てたわけで、がんに至っては見つかってもほとんどが末期の状態だったと問いております。
なんと1ドルが360円だったのですから、世界的に見ても日本の立場が現在とは大きく違うことがわかります。
CTが登場したのは1975 (昭和50)年以降ですので、それまでは画像診断というとX線ぐらいです。
ようやく数力所の大学病院にCTが導入されましたが、新しい検査機器ですから当初はうまく使いこなせず、撮影に時間がかかったうえに画像も不鮮明で、早期がんの発見には程遠い状況にあったと問いています。
薬の開発にしても、当時は今ほど倫理的にもエビデンス(科学的根拠)に厳しくはなく、薬効が認められれば基礎データがなくても使用できたと思われます。
したがって、臨床によって安全性が確認され、効果が実証されれば薬として認められやすく、エビデンスは製薬会社や、その後に関心を持った多くの研究者によって解明されてきたのではないでしょうか。
現に、ベンズアルデヒドも12の大学病院で臨床および研究に入り、その成果を発表するところまでこぎつけていました。
東風貢医師の話しでも、基礎研究で興味深いデータが出たことで臨床試験が行われ、記者会見を開いて報告しようとするほどの成果を上げていたといいます。
そのデータは本来、世に出るべきものだったのですが、不幸にも握りつぶされてしまいました。
今となっては、どのようなデータだったのか誰も知る人はいません。
これについては東風博士も、最期まで語らなかったといいます。
その一方、医療が急激に進歩したのも昭和50年代でした。
新薬の開発も目覚ましく、国内だけではなく海外との競争が盛んになってきており、世界を相手にするにはエビデンスがより求められるように変わってきました。
1981 (昭和56)年には改正薬事法を中心に、医薬品の安全性・品質面への監視がさらに厳しくなりました。
ここが、まさに分岐点だったように思われます。
このときに臨床試験だけではなく、なぜベンズアルデヒドに抗がん剤作用があるのか、その作用機序を求めて基礎研究も東風博士の主導で同時に行うべきだったように思われます。
しかし、東風博士はどちらかというと臨床医であり、基礎研究は製薬会社や専門医に任せれば良いというスタンスだったように感じます。
薬事法の改正で臨床試験のやり方も変わってきた中、明治生まれの頑固さが裏目に出て、自身のやり方を通したことが時代にそぐわなくなっていたのかもしれません。
そう考えると、がんの診断方法や治療効果の判定方法も、現在とは異なりますので、東風博士の臨床試験で得た奏効率も、当時は55パーセントといわれていましたが、現代の尺度でみると違った判定になる可能性も出てくるわけです。
そこで、斎藤潤医師が現代の基準に沿って臨床だけではなく、ベンズアルデヒドの基礎研究を本格的にやりたいと、東風博士に申し出たのでした。
東風博士は「やったら良い」と嬉しそうに答えたそうです。東風貢医師は外科医となって大学病院に勤務していますので、ベンズアルデヒドの研究は何としてもご自分の手で完成させなければと強く思っていました。
それだけに、ご息女が引き継いでくれることを心から喜んでいました。
臨床試験というハードル
こうした経緯で正式な治療薬として認められるために、現在では齋藤潤医師を中心に臨床を積み上げる一方、ベンズアルデヒドのメヵニズムを解明する基礎研究を続けることとなりました。
しかし、ここには超えなければならない二つの高いハードルがありました。
一つは、医薬品として認可されるための臨床試験でした。
新薬や新しい治療法が世に出るまでには、いくつものハードルをクリアしなければなりません。
まず、将来的に薬になる可能性のある物質(成分)を発見すると、「基礎研究」といって試験管の中で細胞レベルの実験を積み重ねていきます。
これに通常は2-3年を要します。
基礎研究で良い結果が得られると、次は「非臨床試験」といって動物や培養細胞などを用いて有効性や安全性などを研究します。
これに通常は3-5年を要します。
非臨床試験をクリアした薬の候補が、ヒトに対しても安全で効果があるのかは試してみなければわかりません。
そこで、今度は実際にヒト(患者さん)に投与して研究を行います。
これを「臨床試験」(治験)といって、安全性と有効性を科学的に調べて確認していくわけです。
この臨床試験は、第1相試験(フェーズ1)、第2相試験(フェーズⅡ)、第3相試験(フェーズⅢ)と、段階を踏んで行われます。
フェーズ1では、安全な用量を調べるために、少数の健康成人に対して、少ない量から徐々に増やしていって薬剤が人体にどのように作用するか、また副作用にはどのような症状が現れるかなどを観察します。
これをクリアして初めて、次の段階に移れます。ただし、抗がん剤に関しては毒性を考慮して、がん患者さんを対象に行われます。
フェーズⅡでは、がん種や病態を特定し、比較的少数の患者さん(100未満)で本当にがんが小さくなるのか、その有効性を判定します。これをクリアすると、次の段階に移ります。
フェーズⅢでは、現在の標準治療やプラセボ(偽薬)と比較し、それよりも優れているか、あるいは同じくらいの効果が認められたり、副作用が少ないかを100.数千人の患者さんを対象にして調べていきます。
フェーズ1からフェーズⅢをクリアするまでに、順調にいって3-7年は要します。
その結果、標準治療と同等、あるいはそれ以上の有効性と安全性が確認されると、厚生労働省の承認を受けて保険診療として治療に用いられるようになります。
そして、がんの「診療ガイドライン」によリファーストライン、セカンドライン、サードラインのいずれかの段階で使用されることとなるのです。
これらの臨床試験は通常、大手の製薬会社が医師や医療機関に依頼して行われます。
しかし、製薬会社や大学病院など第二者機関の協力を得られないベンズアルデヒドによる治療薬では、現在はフェーズⅡの段階にあり、大規模な臨床試験となるフェーズⅢには進めずにいるという状況にあります。
研究費というハードル
二つ目の高いハードルとは、研究費の問題です。
ベンズアルデヒドの治療薬が認められるためには、基礎研究や臨床試験の結果を積極的に学会などで発表することが重要です。
それには、臨床に協力していただいている患者さんに薬代を請求するわけにはいきません。
金銭が発生すると学会で発表できなくなるばかりか、薬事法にも引っ掛かるなど問題になるからです。
そのため、東風博士が臨床を開始してからこれまで一度も薬代を請求せず無償で患者さんに提供し続けてきました。
個人病院が数百人にも上る患者さんから薬代を受け取らずに研究を続けることは非常に厳しく、病院経営を圧迫します。
ですから東風博士は私財を投じることとなりました。
アメリカナイズされた暮らしをしているように、周りからは思われていたかもしれませんが、実はベンズアルデヒドにすべてを投じていたのです。
しかし、おしやれで見栄っ張りなところのある東風博士は涼しい顔をして患者さんと向き合い、生涯をかけて研究をやり遂げる決意をしていたのです。
当初は、横槍が入っても、有効性があることを考えれば、いずれは薬になると信じていましたので、経済的なことは気にしていなかったのかもしれません。
しかし、完成させるためには多くの患者さんに投与し、症例を増やさなければ先に進めません。
それにはさらなる研究費を要します。
このジレンマが、だんだん研究を難しくしていったのは確かです。
こうして「奇跡の治療薬」と呼ばれ、多くの人に期待されたベンズアルデヒドの治療薬は前に進めず、いつしか世間からも忘れ去られ、表舞台から消えることとなったのです。
参考文献
高橋亨・著・進行がん患者を救う「奇跡の治療薬」への挑戦 から一部引用しています。
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