コンスタントに毎日書き続けていると、比較的楽に書くことができるようになってくる。
何故だろう?
書くことで自分の内にある、書こうとするチカラが高まってゆく。
自らが持つそうした内圧そのものが、考えるチカラとして変換されてゆくのか?
書くことが苦にならなくなり、量を書くことが面白いと思うようになると、書いているうちに量をこなす自信が生まれてくる。
すると、自然に質も伴ってくるようになるようだ。
つまり必然的に質は高くなってゆくことになる。
具体的には、ある種の工夫が生まれるからだろう。
何故なら毎日書くことで、自分の向いている方向が正しい風向きなのかがわかるようになるからだ。
つまり自分と向き合いながら文字に残すという作業を通じ、客観的にわかるようになってゆくという寸法だ。
これは、他の手段ではなかなか実現できないことではないだろうか。
これも具体的に言えば、どのカテゴリを対象に書くのかということになる。
モチベーションやさまざまな気力を支えるためには、自分が生きる意味を確認できる実感の持つパワーが不可欠だ。
これは自分でやるしかないことだ。
だがそれを人に求めると、誰も支えてくれない、というという事実と向き合わなければならなくなる。
それを何とかしたいという強い願望は、誰かに自分の話を聞いてもらいたいという思いへと変わってゆく。
すると意味のないメッセージをやりとりをすることで、空しさを埋めようとすることに繋がることになりがちだ。
だがそうして自分を分かろうとしても、それは叶わない。
何故なら、こうした方法でエネルギーを吐き出してしまうと、書くための圧力が抜けてしまうからだ。
書くことによって、自分の感情を客観的に見つめるというのは、最初は難しくまた苦しいものだ。
だが、自分が今興味のあること、疑問に思うこと、悩んでいることなど、探せば必ず何かが見つかるはず。
こうして自分のことを話したいという欲望を、書くチカラへと転化させるわけだ。
これが自分を掘り下げることになり、書くことが容易に感じられることへと繋がってゆく。
言葉と違い、書くことで自分を支える。
これができるのは、自分の書いたものを自分の目を通し、もう一度自分の頭の中へインプットし直すことができるからだ。
このように、もう一度見つめなおす作業は、自分を肯定することに繋がってゆく。
なぜなら、自分の内側にある興味、疑問、悩みなどと向きあうからだではないだろうか。
それが自分への自信として蓄積されることで内から湧き起こるチカラとなるわけだ。
こうしたチカラが存在することは日記が文学として残っていることからも「証」として知ることができる。
量を書くことができるようになると、考えを巡らせるチカラとその量も比例して高まり、またその思考の質も当然向上することになる。
そう考えることができるようになるのは、書くというチカラの成せるワザなのかもしれない。
出典
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