多くの人たちによって取材された結果は、TVや新聞あるいはWEBでのニュースとして、いやというほど繰り返し流されている。
そのため普段よりも、少しばかり興味を持ってそうした報道を見ることになったのだが、あれほどの人数で取材をされたものとは到底思えないほど、画一的で表層的な報道で終わっている。
昨今のいわゆる会社の会計処理にまつわる詐欺もどき事件の報道を見ていると、報道に携わるメディアに関わる人たちが、その報道を通じて普段どんな日常会話をしているのか、そして事件を起こした当事者をどう見ているのか、そして雇い主に対してどのような姿勢でもって仕事をしているのかを、私なりに推測するよい機会となった。
今日はそのことについて、何処まで伝わるかはわからないが、書いてみようと思う。
親は子供に対して、あまりにも子供が理不尽な態度をとると、怒鳴ることがある。
これは何も珍しいことではなく、子供の倍以上も長く生きてきた親は、それまでに生きてきた知恵と体験の総合力では、必ず子を凌駕しているわけで、そうした経験上から、子どもの将来を考えて叱るわけだ。
これは何も理屈ではなく、愛情から生まれる自然な感情のなせるワザだ。
話し合うということも含めて、そういう習慣をもって子供に接することは、子供たちにとって、結果としてやっていいことと悪いことの区別を繰り返し学習させ、体でもって覚えさせることに繋がるからだ。
「叱られるうちが花だ」という言葉があるが、親がそうしたことをできるのも十歳から十八歳くらいまでの間のことであり、その時期を過ぎるとあとは親がこうした部分で子供に対し注ぐことができる、こうした種類の愛情のかけ方はできなくなってしまう。
だが、最近はそうした努力と愛情の掛け方を放棄し、子供を放任したままで育てる親が増えていることは、最近のこうした詐欺事件が増えていることからも十分に説明できる現象だといっていいと思う。
私は実際にそういう人たちの家庭を見てきたわけではないが、こうした事件を起こした当事者たちは、たぶんそれまでの30年あるいは40年以上もの間生きてきた過程で、両親から怒鳴られたことがないのだろうと思う。
両親へ取材をすれば、たぶん「私も主人も、娘や息子を怒鳴ったことなんかないほどいい子だったのに・・」というニュアンスの、コメントが返ってくることは想像に難くない。
子どもを怒鳴ったことがない親は、有難くない方法ですっかり有名になってしまったわが子に対して「どうしてまたこんなこんなことを・・信じていたのに・・」という想いでいることもまた容易に想像できるだろう。
「子どもの体験活動等に関する国際比較調査」によると、日本人の小中学生たちは諸外国の子供たちに比べて「いじめを注意した」「友達のけんかをやめさせた」「手助けをした」「困っている友達の相談にのってあげた」などという体験が少ないのだという。
家庭でも「ちゃんとあいさつをしなさい」「早く起きなさい」「部屋を片付けなさい」という躾を、日本の子どもは他国に比べて、ほとんど受けていないという事態も明らかになっている。
最近の日本の親たちは、いったいどんな場面で子供を叱るのだろうか?
シャッターチャンスを伺う短い間にも、こうした思いがふと頭をよぎったのだが、数日間もじっと待ち続け、考える時間は山ほどあったはずのあれだけの報道関係者たちは、いったい何を考えて待ち続けていたのだろうか?
彼らが携わったニュースや報道からは、少なくともそうした片鱗や匂いさえ窺い知ることができなかったのは、完全に私情を交えずに報道された結果なのだということで納得すべきなのだろうか?
報道という仕事は、たしかにある一面では、そうした姿勢であるべきであることに異論はない。
だが社内にいる編集者にそうしたことを伝え、あるいは少しでも盛り込まれた記事が、一本くらいは目に触れることがあって欲しいという私の願いは、今回も叶うことはなかった。
残念なことだ。
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