自分のものについてはよくわからなくても、人が書いたものの良し悪しは、意外とよくわかるものだ。
なぜなら、客観的に見ることができるからだ。
ということは、自分の書いたものも客観的に見ることができるようになれば、どう見えているかがわかるはず。
そのため自分の書いたものを客観的に見るためには、まず手始めに客観的に見ることができる、自分ではない「第三者という読み手」に見てもらうところから始めてみてはどうだろう。
もともと書き手というものは、主観的にしか見ることができないわけだ。
だが文章という自分の世界では、他人の意見を意識しながら取捨選択することで、自分の意見や世界観を客観化しながら主張し展開させることができるのだ。
こうした過程を繰り返すうちに、やがてだんだんと客観的に自分の書いたものが見えてくるようになる。
書いたときの濃い主観も、時間の経過によって熱を冷まし、冷静さを保ちながら、読み返すということを繰り返せば、やがて第三者の目を養うことができるようになるはずだ。
だが自分の主張や考えを書くことを避け、起こったことを羅列するだけで、当たらず触らずに終始する書き方をしていると、いつまでたっても、主観的な見方しかできなくなってしまう。
客観化した第三者の目線で見る能力を身に着けるには、こうしたプロセスを「楽しみながら続ける」ことだ。
自分の主張や考えを書くというのは、ある程度の思い切りと勇気が必要になる。
だが反論を受けるリスクを背負ってでも、書きたいことって何だろうか?
そう考えると、書けなくなってしまう。
だが、喜んでもらえるものを書く、あるいは自分にしか書けないものを書きたいとしたらどうだろう。
そういった自分の内にある「欲」が、書く能力を伸ばしてくれるのではないだろうか。
コミュニケーションがうまくゆかないときにこそ、そこで繋ぎ止めるための言葉が必要になる。
同じように書くことも、これと同じような、ある種の欲求と結びついている。
そういう要求から生まれるエネルギーでもって書かれた文章は、コミュニケーションをとるだけではなく、自分を癒し、さらには他の人をも癒す力を持つようになる。
大人になってもそう信じることのできる純粋さを、いつまでも保ち続けたいものだ。
出典
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