原作は小説として1999年8月に講談社より刊行され、2002年には、講談社文庫から文庫版が上下巻に分けて発売されている。
防衛庁・海上自衛隊・航空自衛隊の協力で、2005年7月30日に公開。
配給元は角川ヘラルド・松竹。阪本順治監督作品。音楽はトレヴァー・ジョーンズ。製作費は10億円台だという。
日本アカデミー賞!に名を連ねる大物俳優を加え、海上自衛隊の本格的な全面協力の元に製作されたと宣伝されただけあって、日本の映画としては、近年かなり注目度の高かった作品だ。
訓練のため、イージス鑑「いそかぜ」に乗り込んだ先任伍長の仙石は訓練の最中に不慮の事故で部下が一人なくなったことから、艦長に話を聞きに行こうとするが、そこには副長の宮津がいて、彼らから自分たちはDAISという秘密公安であると教えられ、仙石の部下・如月が工作員であると聞かされる。
だがしかし、実は如月がDAISの人間で、副長たちは国家に疑問を持ち、ある国の工作員達とともに反旗を翻すというもの。
ある国の工作員達は、アメリカの化学兵器を盗み、副長たちと一緒に日本政府に訴えようとするヨンファたちだった。
ヨンファたちは関係ない仙石たち自衛官を避難させるが、如月を助けるために仙石は一人で艦へ戻り、持ち込まれた化学兵器を取り戻すために戦う。
だが日本政府はいそかぜを爆撃することを決めるが、最後には如月を助け、ヨンファから化学兵器を奪い取り、攻撃は回避される。
とネタバレさせたのには訳があり、原作者の福井晴敏氏ご自身の言によると「ダイ・ハード」をイメージして書いたというが、映画好きの方なら、マイケル・ベイ監督の「ザ・ロック」にそっくりだと思われただろう。
ちなみに「ザ・ロック」というのは、アメリカ海軍の准将(エド・ハリス)が反乱を起こし、自分の部下と共に難攻不落のアルカトラズ島を占拠するところから始まる。
特殊兵器の照準をサンフランシスコに合わせ、アメリカ政府を脅迫するが、大統領は、最後には米軍の新型プラズマ爆弾を使い、アルカトラズを爆撃する事を決めるが、その前にエド・ハリスの計画を阻止するため、ショーン・コネリーとニコラス・ケイジが立ち向かう!というストーリーだ。
最終的に、ニコラス・ケイジの活躍によって危機は回避されるという、クライマックスの展開に至るまで全く同じだ。
ということは、ストーリーとしての面白さは同じはずなのだが、話が進んでゆくとなんだか昔からあるような、ありふれた日本映画になってしまっているのだ。
何が原因なのだろう?
実物大のイージス艦のオープンセットは静岡県相良町に作られ、艦首と後部甲板を除いた全体の3分の2ほどの大きさで、総工費3億円をかけて作られただけあってよくできている。
それでも全長77メートル、高さ27メートルというのはセットとしては破格のデカさだそうだが、せっかく作ったセットも撮影に使用したのはわずか一週間程度だったという。
阪本監督曰く「掛かった金額をカット数で割ったら、1カットあたり1000万円になりました」ということらしいが、事前に強行収入と予算などを考えた、いわゆるビジネスとしての映画製作が行われていないということが、よくわかる逸話だ。(笑)
この映画の最大の快挙の一つは、海上自衛隊が映画の撮影に全面協力した事だという。
当初、映画化の話を海上自衛隊に持っていったら、あっさり門前払いをくらったのだという。
「現職の自衛隊員がクーデターを企てる」というのは、自衛隊にとっては「とんでもハップン駅まで10分ということなのだろう。(笑)
だが「事実は小説より奇なり」。
幸いなことに、伊藤海幕広報室長が原作のファンだったそうで、当時の海幕長だった古庄幸一にこの話が伝わると「誰が勝手に断ったんだ!海上自衛隊として全面的に支援する!」といきなり対応が逆転したのだという。
実は古庄前海幕長も原作の大ファンで、しかも大の映画ファンでもあったのだという。
そればかりか、石破前防衛庁長官までもが「本がボロボロになるまで読み込んだ」ほどの、熱狂的な「亡国」ファンだったのだというオチまであるのだ。
この奇跡的な偶然を、小滝プロデューサーは「惑星直列」と呼んだというが、アメリカではこの手の映画に海軍が協力するのは普通なのにね。
まあ、いろんな意味で凄い状況だったことは確かなようだ。(笑)
どちらかというとこの映画は、「国家とは何か、戦争とは何か、平和とは何か」というような曖昧な主張に力点が置かれ「生きろ。絶対に生きろ。未来は渡さない。」などというこっちが照れくさくなるような、ちょっとクサイ台詞も聞かれるのだが、そういう「曖昧な主張」を映画として描くというのは、本来とても難しい事なのではないだろうか。
日本通の俳優であるセガールの戦艦映画「沈黙の戦艦」のように割り切ったほうが、映画としては、はるかに面白くなるだろう。
あるいは「ダイハード」的な閉鎖空間でのアクションに徹するとか、アメリカ映画のパクリをしていいということなら、他にも山ほどお手本があるはずだ。
見始めた時点では一瞬「真田広之がスティーヴン・セガールみたいな超人的活躍を見せるスーパーマン的映画か?」と少しは期待したのだが・・
単身艦に舞い戻り、潜行というか隠れ回って敵と戦う主演の先任伍長・仙石役の真田広之は、スティーヴン・セガールというよりも、まるで「ダイ・ハード」のジョン・マクレーンをうんと軟弱にしたようなキャラだ。
だが仙石役としては「どんなにみっともなくてもいい、絶対に生きろ!」という台詞の割にはアクションがきれい事過ぎるし、説教くさく感じるのが気になってしまう。
如月の母親の死とかヨンファの妹の声とかも省略されているから、「どうなっているんだ」とよくわからんし、他にも宮津副長が何故、反旗を翻したのかもイマイチでわからない。
そのため某国の工作員と結託してというか騙されてイージス艦を乗っ取り、政府を脅迫する寺尾聰演じる副艦長・宮津はまるで「ザ・ロック」のハメル准将を間抜けにしたように見えてしまうし「まだ戦っている人間がいるんです」と訴えて艦への攻撃をやめさせるというかやめてもらう内事本部長・渥美は「ダイ・ハード」を腰抜けにしたパウエル巡査のようになってしまうのだ。
人望厚い寺尾聰演じる副長が、何故このような行動をとったのか、幹部自衛官達が何故彼に賛同したのか、小太りの将軍様の「あの国」の工作員が何故我国のイージス艦を占領したのかなどといった、最後に映画を盛り上げるための伏線の張り方がおざなりなため、役者のよさが全く生かされていないのだ。
だがこの作品の魅力は?と聞かれれば、日本人には馴染みのあるという条件はつくものの、豪華な?俳優陣にあるといえるだろうか。
寺尾聰は信頼の厚い男が冷徹になる役だが、悪役になりきれない悪役は好演といっていいだろう。
だが役柄としては、冷静を装っていても、特に解決策を考え出すわけではなく、何も出来ないだけで、クールさよりも無能さの方が目立つキャラとなってしまっている。もったいない話だ。
最後に東京を守るため、副長がイージスともども自爆するシーンは「何だかなあ」であるが、まあこれは役者の責任ではないのだけどね。
ポリティカルサスペンスにしては、フィクションとしてどうにでもできるのに、妙に現実的で情けない日本の国防会議には緊迫感がまるで感じられない。
佐藤浩市が知的な本部長をさらりと演じていたが、どういう立場なのか今ひとつ判然としないうえ、「もったいぶった」設定で、いまどき「タバコをスパスパ」はいかがなものか?
安っぽすぎてハナにつくだけだ。
リアリティーはこういうところで出すものではないだろう。
映画らしいカッコのいい役周りに徹するとか、キャラクターの設定はもっとやりようがあるはずだ。
とこれも役者のせいではないのだけどね。
岸部一徳とのやり取りも、なんだか安物のTVドラマのようだし、翻訳して世界に出すという視点からいえば、再考の余地は大いにありだと思うが、日本人はああいうキャラが好きだという前提なのだろうか。
中井貴一は久しぶりに見たが、「あの国」の工作員として何を考えているのか分からない不気味さを醸し出し、何が起こっても想定範囲内と言った感じで顔色を変えない男を演じていたが、せっかく悪役で凄んでいたにもかかわらず、最後の方では無能無策となり、爆弾を抱えてあえない最後を遂げてしまう。
なんだか見掛け倒しだなあ。(笑)
アメリカ映画の面白さは、悪役がかなり強いという点にもあるのだが、日本映画に出てくる悪役は、総じて凄みの演出が足りない。
観客がどういう心理になったときに、恐怖心を抱くのかを、日本の映画制作陣はもっと研究すべきだろう。
というか、大人として、人間としての深みが足りないのでは?と言いたくなるというのは、言いすぎだろうか?
オレだってもうちょっと策略を考えるのに・・というレベルで腰砕けになることが多い。
普通は正義の味方をついつい応援しているうちに、その映画の世界へ自然にのめり込めるのだが、悪役に「頑張れ」と言いたくなるようではダメなのだ。
私は原作を読んでいないので、キャラクターの心理状態や行動原理や人間関係は「分かりにくいことだらけ」で、息子を失った宮津副長の苦悩や反乱に至る動機、あるいはテロを企てたヨンファの思想などが、うすうす分かる程度であって、十分に伝わってこないのだ。
原作ではしっかりとした人物描写によってそれぞれの思惑や関係性が理解できるようになっているのかもしれないが、映画ではキャラクター描写がおざなりにされているため、説得力や感情移入ができなくなっている。
たとえば、唯一の女性工作員ジョンヒが、いきなり潜水艦から潜り込むというか乗船してくるのだが、いったい彼女は何者なのか?
一言もセリフが無いのでわからないのだが、どうやら日本語が「しゃべれない」設定であったらしいが、映画の中でそれを判断する手がかりは全くない。
ヨンファとの関係はもちろん、何のために出ているのかさえ良く分からないという不思議。
途中で突然水中でのキスシーンが飛び出すのだが、何のサービス・カットなのかもわからず、映画を観る限りにおいては必然性が全くないのだ。
彼女がいなくても映画のストーリーに全く支障は無いため「原作に出ているから取りあえず出しとけ」ということなのだろうか?
といろいろ調べてみると、どうやら脚本家の長谷川康夫が、彼女をはずすと男ばかりになってしまい、画面に「華」が無くなるのでどうしてもはずせなかったというのが真相のようだ。
ということは「秘密工作員」ではなく「お色気要員」だったということになる・・(笑)
テンポも、イージス艦を占領して、ハープーンをぶっ放してたあたりまではまだよかったが、その後はダレダレの展開。
いそかぜでは既に内部分裂が始まり、副長の部下達は皆迷いまくり、これじゃあテロリストというより、銀行強盗して立てこもり、強盗したことを後悔しているチンピラである。
極刑も覚悟で蜂起したのなら、死んでも最後まで敵と戦えよ!と突っ込みたくなるのだが、物語の中でまで、情けない平和ボケの日本人を演じるのはいかがなものか。
自分の信念も貫けず、周りに流されて戦う情けない兵士たちという実情を描いているのか?(笑)
結局、どこかで見た役者が、どこかで見たような設定で演じる、どこかで見たような典型的な日本映画になってしまっている。
リアリティーが妙に薄いのも、また日本の映画の悪しき伝統なのだが、その点も残念ながら見事に継承されている。
自衛隊員としてイデオロギーを持っているはずの主役の真田演じる仙石は、ただの熱血野郎でしかなく、終盤の仙石のセリフ「ヨンファの部下も、早く離艦しろ。何が何でも生きろ!」で決定的にズッコケたが、何じゃ、それは?
「普通の国」なら全員その場で射殺になってもおかしくないような「敵」に対して、艦長代理の任を託された現役先任伍長が「早く逃げろ」っていうのは、いくらなんでも不自然だ。
しかも、そのヨンファの部下たちがどうなったのか、離艦して逮捕拘束されたのか、それとも艦内で自決でもしたか、そのあたりはウヤムヤのままで、後半はいつの間にか人情ドラマと化してしまうのだ。
最後に宮津の原田美枝子扮する妻君が墓前で「何の話してるの?」「また船の話でしょう」なんて呑気なことを言っているシーンが突然挿入されるが、これも唐突だ。
結果的に「命がけで大惨事を阻止した」ことになった宮津が「殉職」扱いで昇進になったらしいことが分かるシーンだが、これも必然性のない、なくてもいいシーンだ。
寺尾聰演じる「わが子を亡くした」宮津の妻君役が、やけに老けていた原田美枝子っていうのは「半落ち」のパロディーなのか?
日本の映画はいつも「情緒最優先」で、最初の設定はそっちのけのシーンがあったり、思いがけないエンディングを迎えるというのは日常茶飯事で起こるから、満足感がないままで、見終わった後の脱力感がつきまとうのだ。
だが、最大に緊迫した場面が冒頭に来て、その後だんだんとフェードアウトという日本映画の伝統は見事に継承されている。
寺尾が途中で善人に心変わりした影響で、部下が全員「へなちょこ」になる設定のため、後半が全く盛り上がらないのだ。
真田以下主役3人はいくら撃たれても致命傷にならない不思議はさておくとしても、すべての細かいストーリーにも決着をつける割には、映画のテンポには無頓着だ。
「東京壊滅まで**秒!!」「全てを握られた日本政府!」「ひとり立ち向かう主人公!」というタイトルを見ると物凄い大パニックサスペンス映画のようだが、意外にもタイトルほどの緊迫感がないのは、テンポが悪いせいだろう。
ハリウッドのポリティカルアクションに慣れている観客には、この程度のものでは全く物足りないというレベルだ。
ハラハラもドキドキもしないうちに淡々と物語は流れてゆくが、編集はウィリアム・アンダーソンという「トゥルーマン・ショー」や「グリーン・カード」などの緊迫感を必要としない作品ばかりを手がけた人物に担当させたようだが、では人間模様を中心の作品かというと、そうでもない。
最初にあれだけ大上段に謳っていた肝心の「国家」だとか「国防」だとかいうテーマが後半にはストーリーやアクションシーンからは見事に消え去ってしまっているため、結局は中途半端な印象しか残らないのだ。
残るといえば、もし実際にこの国が突然危機体勢に陥った時「本当に自衛隊の力で何とかなるものだろうか、やはりアメリカに頼るしかないのだろうか?」と考えさせてくれる点くらいだろうか。
音楽も横文字の人間が担当した割には凡庸で、照明も相変わらずのベッタリした平面的なライティングだ。
細かく書くと多すぎるので割愛するが、産経新聞はこの映画の協賛企業だからか「カンヌで絶賛」というニュースも報じたが本当だろうか?
海外からの買い付けが多くあり、評価も高かったとニュースで報じたが、貴社の記者は帰社してちゃんと映画を見たのだろうか?(笑)
問題は物語より何よりも、キャラクターの掘り下げ不足だろう。
これはもう「原作付き」の宿命なのかもしれないが、膨大な小説を2時間前後の映画に納めるためには、色々なものを捨てるしか方法は無いワケだ。
それは登場人物の背景であったり、個々のエピソードであったり、いずれにしても取捨選択を迫られ「断腸の思いで決断を迫られるのだと思うが、要は「どこをどのように切り取り」どう見せるか?という判断が非常に重要なのだ。
この作品の場合、最初に出来たシナリオは300ページを超え「これを映画化したら5時間になる」という事で大幅なカットを余儀なくされたのだという。
だが、大胆にハサミを入れたのは、脚本家でもプロデューサーでもなく、なんと福井晴敏本人だったというのだ。
普通、原作者にしてみれば自分が苦労して書いた小説を、削除するのは抵抗があるはずで、思い入れの強いエピソードならなおさら切りくないはずだ。
ところが福井氏は「必要無い」と判断したら躊躇無くどんどん切り捨てていったという。
その姿は「あんなに割り切りのいい原作者は初めて見た!」とプロデューサーを呆れさせるほど凄まじかったそうだ。
それどころか、原作者が最も気に入っていた「阿久津徹男のエピソード」を自身であっさりカットしてしまったため、プロデューサーの方が慌てて「ええっ!福井さん、そ、そこを切るんですかあ!?」と慌てて原作者に詰め寄ったという逸話まで残っているらしいが、これじゃあまるで立場があべこべだよなあ。(笑)
映画のラスト付近で、副長は爆弾を破裂させてイージス艦をお台場の沖で沈没させてしまう。
「ショボいCG」は映画を一瞬でウソ臭くしてしまうというのにだ。
副長や幹部クラスの人間であれば、あのシチュエーション、つまり原爆が爆発したりするわけではないのだから、艦が岸へ突っ込むというだけで、自ら艦を沈没させることはないはずだ。
このこと自体が、リアリティーをなくしているのだが映画ではその説明は全くないまま、最後の大事なシーンで「イージス艦が沈没するシーン」を観客に見せてしまっている。
私が監督なら脚本を変えて、艦は沈めないだろう。
少ない予算を無駄なCGや特撮のシーンで使う必要はないからだ。
副長が沈める前に、謀反を起こした連中は全員死んでいるわけだし、沈める理由は見当たらない。
予算のせいだろうか、この作品のCG合成のカットは意外に少なく、前半の「いそかぜ」対「うらかぜ」の戦闘シーンを含めたったの98カットしかないのだという。
当初は、自衛隊が本物のミサイルを撃っている所を撮影しようとしたらしいが、不可能という事が判明。
イージス艦は高価で、所有している国はほとんどないうえ、我々はめったに見ることができないのだから、どうせイージス艦を登場させるならその機能や、内部構造などをもっと見せてくれてもいいのにと思ってしまう。
観艦式に参加すると、5インチ砲(祝砲)とボフォース砲(対潜ロケットランチャー)の発射を見る事はできるらしいが、ハープーンミサイルやシースパローの発射は演目に無いのだという。
特にハープーンは射程が100キロメートルを超えるため、日本近海では訓練が行えないという事情で、ミサイル発射シーンは全面的にCGを使用する事になったようだ。
結局米海軍の記録映像等、集められるだけの資料をかき集めて、可能な限りリアリティを追求したのだという。
これは、阪本監督が「ドキュメンタリー的な本物っぽさにこだわったから」だというが、最後の「イージス艦いそかぜ」の沈没シーンは、8メートルのミニチュアを使用して実際に撮影したのだという。
案の定、最後のイージス艦炎上は「プラモデルが壊れて沈んでゆく特撮」シーンに見えてしまっているため、それまでかろうじて踏みとどまっていた土台が、崩れ去るように、すべてがうそ臭くなってしまっている。
最後の最後で、何だかなあ・・である。
だが実はその前に仙石の「ある行動」によって、それまでの映画の雰囲気が見事にブチ壊されているから、幸いなことに?最後のイージス艦炎上のCGの酷さの印象は、薄いものでしかなくなっているのだが・・
「ザ・ロック」のクライマックスにも同じ場面が出てくるのだが、要は自分の存在をアピールし、ジェット戦闘機からの爆撃を停止させるため「最後の行動に出る」というシーンがある。
本作の中でも最後の非常に重要なシーンとして描かれているが、はっきり言って「ザ・ロック」の256倍ダサかった。
というのは、偵察衛星が真田広之つまり仙石の姿を映し出すと、総理大臣が一言、「・・・・・あいつは何をやっとるんだ?」と言い放つのだが、まさに「何をやっとるんだ?」としか言いようがない衝撃映像がそのあとに炸裂するのだ。
何を隠そうこの衝撃映像を見たその瞬間、不覚にも笑ってしまった。
ネットで調べてみると爆笑の渦に包まれた劇場もあったという。
これはお笑い映画か?(笑)
これは「行動」自体に問題があるのではなく見せ方の問題で、真田広之がやっている事は理屈で言えば決して間違ってはいないのだが、ただどう考えても、バラエティ番組のゲームにしか見えないのだ。
なぜ、もう少しかっこいい見せ方ができないのだろう?
いずれにせよ、一番大事な最後の場面で、意図に反して観客に笑われてしまうのは致命的と言えるだろう。
これがOKされるまでのプロセスで誰もこのシーンについて、異議を唱えなかったのだろうか?
まさに「亡国の日本映画」である。
出典
2006年5月21日