今後の日本映画のために、画像付でいくつか気になった点を指摘しておこう。でその問題作は「戦国自衛隊1549」 。
ストーリーはこうだ。
人口磁場発生器!の秘密実験中に事故のため一部隊丸ごと戦国時代に吹っ飛ばされ、その後過去の歴史干渉が原因と思われる「ホール」が全国的に発生。
このままでは未来が変わってしまう!という緊急事態で、救出部隊「ロメオ隊」が結成され、二度目のタイムスリップで戦国時代に向かう。
だが、74時間26分以内に同じ場所に戻ってこないと二度と戻れなくなる、という条件で映画が展開する。
フィクションの場合、「いかにリアルに見せることができるのか」は、その作品の成否を決める大きな要素なのだが、この映画の場合CGの使用は予算から言ってかなり無理があることは明白だ。
「ステルス」の場合は、この「リアリティー」を出すためにCGを頑張ったわけだが、これにはコストがかかる。
「ステルス」はCGだけで34億円。
だがこの「戦国自衛隊1549」の場合、総製作費は15億円。
もしCGを入れるとなると、どれくらいの予算が割けるかは、素人でもおおよそはわかるだろう。
クライマックスでミサイルが発射されてしまうシーン。
まるでゲームのようなレベルの、ミサイル発射シーンを見せられると、よほど予算がなかったのだろうと、余計な心配をしなければならなくなってしまう。
肝心のクライマックスで、城が炎上するCG?では、火山の噴火にミニチュアの城を撮ったものを合成したのでは?と容易に推測できるものが使われている。
CGをできるだけ使わずに済ませ、 CGのできの悪さについて観客の注意をそらすには、現代の人間が過去にタイムスリップするという、同じような展開の「バック・トゥザ・フューチャー」のように、コメディーな味付けの作品にするという手がある 。
だが「戦国自衛隊1549」の場合、こうした「笑い」の要素はまったくない。
かわりに、大そうな「マジ」が全編を貫いているのだが、かえってそれが痛々しいものになってしまっている。
映画の面白さとはなんだろう?
主人公二人が、過去に飛ばされた部隊が向こうで織田信長に成り代わり戦国時代に君臨、上官の自衛隊員が織田信長として激しく現代に牙を向けてくるのをどうやって止めるのか?
未来に対する責任とは?
といういささか重いテーマを描くには、その重さに負けないリアリティーが必要なのだが、それがペラペラに薄いのだ。
戦国時代の武士たちは、全員バミューダパンツのようなものを履いているが、総じてこの作品では、時代考証がされていないようだ。
だが、いくらなんでも当時の合戦で、兵士たちが半パンを履いているということはないだろう。
こうした無神経さのため、戦国武将はただの変装した現代人にしか見えず、ライティングのまずさとあいまって、チャンバラ時代劇に自衛隊を混ぜたとしか思えない、合戦シーンとなってしまっている。
自衛隊員が、腰だめで89式小銃撃ったり、ノーヘルで髪を振り乱した女性隊員が乱射するとかのシーンを見るにつけ、演出面でのリアリティーという点からも、カンベンしてほしい。
だから手に汗握るようなハラハラ感やドキドキ感もないし、戦闘シーンも何だか、TVの大河ドラマの合戦シーンのようになってしまっている。
「ステルス」のように、ストーリーを捨て、思い切って製作陣が楽しんで作っていればまだ救いがあるのだが、それもない。
監督の言によると、現在自衛隊が抱えているサマワでの援助や国際貢献などが「戦国時代に行ってしまった仲間を救出するために作戦を決行する」という状況と似ているため25年前の作品「戦国自衛隊」をリメイクしたのだという。
実弾の使用を巡る葛藤も描いたということだが・・
プロデューサーの言によれば、旧作の「戦国自衛隊」は、若い人たちの間で「もう一度観たい、もう一度作ってほしい」という要望が非常に強い作品だったという。
現在の日本では陸上自衛隊が様々な形で注目され、25年前とは状況が大きく違うため、旧作と同じ形にはできなかったが、陸上自衛隊という素材を使うことで、人間とは、友情とはどういうことか、若い人たちに大きくアピールできるのではないかということで、今回の製作に至ったのだという。
それなら、戦闘シーンはできるだけ見せずに端折り、CGも使わずにすむように何とか工夫をして、人間関係の情を徹底して描くとか、意外性を持たせるとかの工夫が必要だろう。
だがこの作品は、本来はコストのかかる要素もおかまいなしで、中途半端に全部てんこ盛りにしてしまったため、なんだか「まずいお子様ランチ」みたいになってしまっている。
ヘリコプターを動かし続けるためには、城と一緒に石油精製所も作る必要があるという理屈で、リアリティーを出そうとしたことは理解できるが、ダサいCG?で製油所を見せているため、結果は全く裏目に出てしまっている。
予算の関係だろう、コンピューターも何だか、その辺のPCを使っていることが見え見えなで、こういうところもああいう風に見せる必要は全くないはずだ。
どうしても見せたいのなら中途半端なことをせずに、思い切って作り物でしかできない、デザインにするとかの工夫をするべきだろう。
城のCGも、ハリウッド映画を見慣れてしまっている目には、ちょっと受け入れがたいレベルのものでしかないのいが、なんだかなあ・・である。
タイム・パラドックスに対して深く考えるとか、あるいは開き直ってドンパチやるにしても、その有効性・合理性を考えるとか、伏線を張って大どんでん返しとかも、一切な しだ。
映画がエンターテイメントであることをすっかり忘れてしまっている制作陣が、原作を台無しにする脚本とあいまって、役者まがいのタレントの薄っぺらな演技に一旦OKを出してしまうと、こうも歯止めがきかなくなるものだろうか。
プロダクションとどういう契約があったのかは知らないが、若い女性タレントを姫に仕立て上げ、台詞を棒読みさせるのはいかがなものか?
リアリティー以前の問題だ。
もう、ただそこに姫や侍の格好をしてる役者がいて、同時に自衛隊の迷彩着てる俳優がいるだけといえば、言いすぎだろうか?
演出としてこのレベルでOKを出してしまうと、戦闘シーンにしても、火薬を使える場所としても富士山の自衛隊の演習所の近くで、撮影しても大丈夫そうな適当な場所を見つけ、特殊効果、カメラワーク、天候に対しても「ほいきた撮影」でやっつけたとしか思えない仕上がりとなってしまう のは無理もない。
そのため、現代兵器になくてはならない重厚感が微塵も感じられない。
平和ボケした日本を世界に知らしめるリアリティーのなさがシュールで、そこを楽しむという楽しみ方ならできるかもしれない。
そこまで、来てしまっている。
拳銃の弾が一発戦車に当たっただけで、こういう火花が出るものだろうか?
戦車にはあれだけの火花が散った弾のあとがない。
こういうシーンを残す神経がよくわからない。
コスト削減と、リアリティーのため、構図にも工夫をすべきではなかろうか。
城が崩れてゆく中で平然とまわりを見渡してる主人公や、舞台俳優出のわざとらしい演技、情を描くたびに、戦いの最中とは思えない妙な「間」があちらこちらに見られるなど、リアリティーという点では20年前のアメリカ映画にも及ばない。
かつて陸自の特殊部隊で実力トップだった主人公の江口洋介が、居酒屋の店長としてのんびり暮らしているというのは、リアリティーのなさにダメ押しをするものであり、そこへ突然現れた隊員らにより半ば強引に召集されるというのも、何をかいわんやである。
映画の冒頭で、神崎怜2尉(鈴木京香)らが口頭で説明しまくるため、そこから先での予期せぬ意外性という部分が全くなくなってしまう。
普通は伏線となるさまざまな要素を丁寧に描き、積み重ね、リアリティーを出すものなのだが、その過程をすっ飛ばし、「歴史干渉が原因と思われるホールが全国的に発生している」といきなりいわれてもねえ・・
はい、ぬかりなく説明しましたよ、とばかりに「歴史干渉が原因と思われるホールが全国的に発生している」という説明とリアリティーのない特撮による「ホール」らしきものを 見せられても、見る側にとっては、にわかには信じがたい心理状態でしかないということについて、制作陣の誰一人として気がつかなかったのだろうか?
タイムスリップした主人公の自衛隊が戦う相手が、「現地の武士」ではなく「暴走した別の自衛隊」であるという、やりようによっては意外性として使えるアイテムを、こうまであらかじめ説明してしまう必要性が 、いったいどこにあるというのだろうか?
そのため、観客側が先回りしてしまう想像力のはるかに下のレベルでの意外性とあいまって、普通はこの手の映画のセオリーである戦闘場面にちりばめられる、真実の暴露という意外性という面白さも全くない状態では、早く終わらないかと、残りの時間が気になり始めることになってしまう。
この映画の監督は平成ゴジラシリーズで何度も自衛隊と特撮の組み合わせで撮影した経験がある人らしいが、そのためだろうか、主演の二人には現実の自衛官らしさが薄く、キャラクターとしても血が通っていない演出のため、主演の二人は外見だけは美男美女風以上には見えず、なんだか自衛官募集映画のようになってしまっている。
作り手側の政治的な主張や立場がまったく見えないかわりに「大切な人を守るために戦う」という、どう見ても後付けのいいかげんなテーマが、ぬるい状態で貫ぬかれているだけだ。
江口洋介と鈴木京香は、よほどこの作品のギャラがよかったのだろうか?
だが役者としてのキャリアで言えば、作品は選ぶべきだと思う。
とにかく制作側がこうした体たらくなので、俳優が頑張っても、どうにもなるものではないのだが・・
物凄い破壊力を持つという最終破壊兵器を膝に乗せているようだが、そんなに軽かったか?確か運ぶときは二人で重そうに運んでいたのに・・
江口洋介の膝は大丈夫か?(笑)
表面の光の反射の具合で、まるで作り物のように見えるのはまずいよなあ。
圧倒的な火力を持つ近代兵器と、刀や槍の物量軍団との戦いという構図は捨ているのだから、かわりに自衛隊同士のド迫力バトルがみられるかというと、それもない。
今回は陸自の全面協力をもらっているから、戦車もヘリも本物が使えるうえ、おまけに演習場での撮影ということで、火薬も安心して炸裂させることができるということに製作側が満足してしまっている節がある。
「ホンモノの自衛隊の装備を使ってるんだぞー」というのは、世界レベルで見ればそれは手法の一部であって、映画の面白さとは直接関係はないものなのだが、何となく「ここ」を前面に押し出そうとしていることが、画面からそこはかとなく伝わってきてしまっている。
登場する車両とか銃とかが、ずいぶん新品のようで綺麗なのが、リアリティーという面からは完全に仇となってしまっている。
泥を吹き付けて、実際の戦場というリアリティーを出すということが、自衛隊に遠慮してできなったのだろうか?と思ってしまう。
映像は光の反射や影のコントロールを考えていないようなベタなライティングばかりで、シーンによっては、スモークを炊くとかしてはどうだろうか?
「ラストサムライ」くらいは見て研究すべきだろう。
最終兵器とやらに、そのへんにありそうな電源プラグとギター用のコードのようなプラグを使うのはやめた方がいいと思う。
本来であれば自衛隊の全面協力に感謝し、その行為に報いるためのその段階からの制作陣のさらなる工夫が、映画の面白さをプッシュアップすることになるのに、そこを放棄してしまっているのでは、何をかいわんやだ。
本物を使っているのに、張りボテみたいに見えるというのは、やろうとしてもなかなかできるものではない。
こればかりはハリウッドも真似はできまい。(笑)
始まりがピークで、そこから徐々にフェードアウトし、最後は予算もなく収拾がつかなくなったので、そこをエンディングにしたのではないだろうか?という疑惑を持たざるを得ない、日本人としては耐え難い日本映画の悪しき伝統が、この作品でも見事に貫かれていた。
見終わった後の脱力感によって、自分の仕事に誇りを持てるという効果を狙って制作されたのであれば、見事な手腕である、と締めくくるとしよう。
出典
2006年5月17日