だが一方で人は「自分を信じたい」「自分が一番」という「自分主義」を本能的に強く持っている。
自分は理想的で完璧な仕事ができるかもしれないという夢を持つのは、決して悪いことではない。
だから自分の思惑とは逆に、カットロスをすべき場所まで後退しても「ひょっとするとここから反転するかもしれない」という淡い期待を抱くことになる。
だがそれは自分が創りあげた、理想の世界での話だ。
現実は、意に反してそのまま下げ続けることになる。
教科書や理屈だけの世界では、どうしてもこのようなそれは「自分だけが幸せに生きること」を前提にした「自分のための理想主義」になりがちだ。
「自分の都合のいいように行動する」ことは、何も悪いことではない。
これは今の日本の大多数の考え方だろう。
だがこれはえてして「多くの人のためになる理想的なことであっても、自分の困ることはやらない」という選択をすることに繋がる。
誰にも気づかれないのであれば、なおさらのことだろう。
そういう考えのもとでは、あなたの上司より、仕事ができる人を、あなたの上司は彼の上役には推薦することはしないだろう。
上司以外の人にとっては好都合であっても、上司にとっては好都合ではないからだ。
世の中の大多数の人はそういう考えであり、そういう人が権力を持てば困った存在になるわけだ。
つまり、こういう考え方の世界では、真に才能のある人は、あればあるほど世の中には出てこないことになる。
世の中に出るのは才能のない人ばかり、ということになりかねない。
これまでにない新しいジャンルの場合は、時に圧倒的な才能の人が頭角を現すことはあるにしても、今のように安定した世の中では、本当に才能のある人はなかなか出てこない。
圧倒的な才能は人を嫉妬させるために「自分のための理想主義」がはびこることになる。
一方で、キリスト教を中心とした西欧の世界では、神という存在があるために、誰も見ていなくても「神だけには見られている」という概念がある。
信仰はときに「多くの人にとっての理想主義」を現実のものにする。
そういう信念を持っている人は「自分は困るかもしれないが、多くの人のためになる理想的なことであれば、あえてそれを選択する」という行動を取ることがある。
そういう考えのもとでは、あなたの上司より、仕事ができる人を、あなたの上司は彼の上役に推薦して、より仕事がうまく運ぶようにすることになる。
すべての人がそうではないにしても、あるタイミングでそういうことが行われると、誰もが想像しえなかったことが起こるのだ。
ウィンドウズ、グーグルなど目に見えないシステムの世界は、誰にでもチャンスがあるにもかかわらず、西欧の組織や人間が考えつき、そして育て上げ、ものにしているという事実と、こうしたこととは無縁ではないだろう。
失敗を許し、引きずらず、ミスは自分の中で消化し、自分の中に壁を作らないという前向きの「性格」は、幼少の頃から信仰によって時間をかけて刻み込まれ、冷静かつポジティブに自分の可能性を信じきることのできる人を育てる。
信仰心の薄い世界では考えられないことが、民主主義をベースにした信仰心の強い「信じる世界」で起こっている。
この事実を忘れてはならないと思う。
出典
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