平均寿命の伸びと共に、実年齢と精神年齢の乖離が大きくなっている。
20才で成人するという考え方は、人生50年と言われていた時代のこと。
平均寿命が延びれば、その分の調整が必要になるはず。
人生50年での20年というと50年の40%に相当する期間だが、人生80年で換算すれば、32才に相当する。
つまり今の時代では、人生50年の時代とは違って、30才が成人ということになる。
だが現実には大学に入る18才くらいからは、親元を離れるケースが多く、人生50年だった時代に換算すると、わずか12才で荒野へ旅立つわけだ。
そうなると、親でなければ教えることができない部分がスッポリと抜け落ちてしまう。
そこでのさまざまな体験や出会いは、良いものばかりとは限らない。
そうしたときに生じた迷いに対し、親だからこそカバーできる部分というのがあるわけで、えてして我々はこうした「愛情をベースにした軌道修正 」のチカラを、過小評価しがちだ。
子育てというのは、羞恥心 、プライド、あるいは「どこまでが許されることなのか?」などという、いわゆる「他人では教えることができない」ケジメを教えることであり、いいかえれば子どもが成人するまでの、親としての最低限の目標だといっていいだろう。
しかし最近では肝心の親が、そう考えないケースが多い。
その影響は電車内での化粧をはじめとする、様々な行動へと繋がるわけだが、これは何も本人たちだけの責任ではない だろう。
しつけが出来でいない歳のベイビーをレストランへつれてゆく、あるいはレストランで静かにさせるためにオモチャを与えるなどという、「最低限」の線引きすら失敗している親たちが、日本中に溢れている 。
これは学校で教師が伝授できる次元のものではない。
「社会における責任とは何か?」
これを教えるのは本来、親の役目のはず。
欧米の「まともなレストラン」では、しつけの出来ていないベビーカーに乗る年齢の子供を同伴しようとすると、拒否されるのが普通だ。
何故なら、客であれば何を要求してもいい、というものではないからだ。
社会に参加する際、他人に対する配慮があってこそ、自由に振る舞うことが許されるという「暗黙の常識」さえ知らない日本人が増えている。
責任を問われる行いに対しては、人の命を奪うなどという「取り返しのつかないもの」と、「取り返しのつくもの 」との二種類があることを、 親は子供に周知徹底させる義務があるはずだ。
にもかかわらず、とにかく「忘れたら叱りまくる」あるいはどんなミスであれ「全く叱らない」という二者択一的で 、しかも原則さえ持ち合わせていない親がゴマンと存在する。
事の大小にかかわらず、それが「取り返しのつかない」ことであれば、親は全力を挙げて叱咤する必要がある のだ。
だがそれは時間とエネルギーを必要とするため「同じことを繰り返さない方法論を子供に獲得させる 」という愛情がベースになければ、とてもできるものではない。
「今度やったら承知しないからな」というだけで見逃し、同じことを繰り返しても小言を言う程度しかできない親は、 いつか子供から何らかの「しっぺ返し」を食らうことになる。
「親にきつく叱られるよりマシ」と思うからこそ、子どもはそこでかろうじて踏みとどま ることができるのだ。
子どもに限らず人が「何かを忘れる」ことはよくあるわけだが、忘れないための能力には個人差がある。
その能力や頻度に応じて、「忘れてもいいような仕組みをつくるために訓練する」 のは、子供がいくつになろうともその努力を放棄すべきではない「親の責任」なのだ。
そして、そこで大事になるのは判断力。
将来にわたって、いろいろな場面で人生を左右するであろう「判断力」を子どもに身につけさせるには、どうすればいい のか?
日本における子育て論の大半は性善説がベースとなっている。
可愛いがゆえ、褒めて良いところさえ伸ばしてやればいい、というような性善説を前提に すると、うまくゆかないとすぐ挫折し、結局は成り行きに流されてしまうことになる。
上司の部下に対する接し方も子育てと同じで、褒めるのがいいのか、それとも叱るのがいいのかという 、単純なものではないはずだ。
褒めたり叱ったりという飴と鞭を使うのは、説得、強制、交換条件などと同様 に、判断力を伸ばすために必要だからだ。
判断力とは、誰かの指示がなくても、一人で取捨選択ができるようになることで、正しい訓練を続けることで伸 ばすことができる。
人生における判断も、トレードに似て、実はその内容よりも、速さが問題となることが多い。
長く悩んだ末どちらかを選んだとき、もう一方は放棄せざるをえないため、人生においては「その判断」が正しかったかどうかは永遠に検証できない、という構造的な難しさを持っている。
だからこそ、できるだけ早く的確に選び、その方向でベストを尽くすことが大事になる。
このように、「育てる」というのは、心構えと技術を、うまく噛み合わせ、教える必要がある。
さらに子育てにおいては、終点を「成人または社会に出るとき 」というように明確にしておく必要があり、それを自立と呼ぶ。
自立というのは、責任を他人に転嫁しない能力が備わった時点で、始めて可能になる。
トレードという仕事では、ロスやうまくゆかない理由を、他に求めたりはしないのが普通だ。
マーケットがどう動けばどう対応するかは、事前にほぼ決まっている。
マーケットの動きにあわせ、その時点での選択肢を正しく認識できれば、ロスを最小限に抑えることができることを知っているからだ。
つまり、判断は「願望」を元にしたものではなく、マーケットの動きにあわせて、行動を変 えなければならない。
トレードにおいての判断力向上のプロセスでは、ロスという「落とし前」をつけながら、経験を重ね ることで体験知を豊かにするという痛みを伴うものなのだ。
だがそうした痛みと小さな失敗を経験するからこそ、致命的な失敗を犯さない可能性を 大きくすることができるわけだ。
これは他の仕事や物事においても、同じ事だろう。
突然仕事がなくなるなどの予期せぬ事態が勃発すると、右往左往することになるのは何故か?
最悪の事態というのは、最悪の事態を想定しないところで、起きることが多いからだ。
出典
2008年6月11日