オリジナルの変色や傷を修復。
さらに解像度を上げる作業で、蘇ったショットの完成。
というわけで、デジタル化した写真でフィフィザフリーの軌跡を振り返ってみた。
高校3年生の時に、エレキギターに填まる。
ギターは国産の安物グヤトーン。
最初はベンチャーズ、そしてすぐにビートルズへ。
自宅の自室で練習中・国産アリアのギター
大阪芸術大学工業デザイン科へ入学。
軽音楽クラブへ入部。
高校時代からエレキギターを弾いていたため、大学の軽音学部へ参加後、すぐにメンバーとして参加することに・・
豊中市東豊中の自宅の庭で父が撮影。
練習場所は大阪芸術大学の大教室。
授業中は、大教室の裏の屋外で練習していたが、煩いと年中叱られていた。(笑)
左から尾下・池下(うつみ)伸一・まぶちはじめ・曽根隆・福田粛(ふくだおさむ)
初期のフィフィ・ザ・フリーのメンバー
何故か「にやけ」た様子の池下(笑) 1966年・昭和41年
当時大阪芸大は新設の大学だったため、周囲は田んぼだけ。
やることがないので、年中練習ばかりしていましたね。
左から池下(うつみ)伸一・曽根隆・福田粛・尾下・吉田一夫・まぶちはじめ
1967年・昭和42年1月・ボウルコンパ
当時はとにかく、よく練習していましたね。
その甲斐あってか、一年ほどで、コンテストへ参加すると、必ず優勝するほどになっていました。
ドラムは原田康彦・まぶちはじめ・池下(うつみ)伸一・曽根隆・吉田一夫
1968年・昭和43年・パラカ
この頃には地元のジャズ喫茶などで、かなり頻繁に演奏していました。
左 曽根隆・まぶちはじめ
オレは余り声が良くなかったので、難しい音程や節回しのコーラスパートを担当。(笑)
コーラスのアレンジは、全てバンマスの曽根さん。
池下(うつみ)伸一・吉田一夫・まぶちはじめ・下賀某・曽根隆
珍しく野外で撮影したショット。
服部緑地公園の野外ステージで演奏したとき、ついでに撮ったのでしょう。
左から吉田一夫・曽根隆・まぶちはじめ
1967年・昭和42年6月26日 ザ・シャドウズと共演というか前座 大阪フェスティバルホール
解錠が大きく、今のようなモニター環境ではなかったので、ハモリがよく分かるよう、こうして3人で固まってコーラスをつけるわけです。
ソロは、ほとんどが池下(うつみ)伸一。
ダントツに声が良かったからね。
左から池下(うつみ)伸一・まぶちはじめ・下賀某・吉田一夫・曽根隆
珍しいカラー写真
ヤマハライトミュージックコンテストに参加
何故かウィキからはこの項目が抜け落ちていますね。
ヤマハライトミュージックコンテスト西日本で優勝
1969年・昭和44年8月31日
この後間もなく、ジャガーズの在籍していた、エコープロダクションから声が掛かり東京へ上京。
最初は同じプロダクションに所属していた「泉アキ」の伴奏が多かった。
俺たちは前座で演奏し、そのあと「泉アキ」が登場するわけです。
左から池下(うつみ)伸一・吉田一夫・鈴木のり・吉田一夫・曽根隆・まぶちはじめ
のりのドラムが一番ソウルフルで、なおかつ歌もソウルフルでした。
とにかくドラムがよく変わっていた。
なので「のり」の参加で、ようやくメンバーが固まったというわけです。
マネージャーが、お前達はルックスが悪いし垢抜けないから、タイガースのようにはなれない。
だから金の稼げるバンドになれ。
と言われ、立川とか座間とかの米軍キャンプ回りをさせられました。(泣)
1970年あたり 札幌のナイトクラブ「ジャッド (JUDO)」 で撮られたと思われる一枚。
この頃にプロダクションへの借金を返済し、多少経済的にはゆとりが出始めた時期でした。
1972年・昭和47年に解散。
続く・・