では高倉健の持味が100%引き出せていたか?
というと残念ながら、脇役のキャスティングが惜しかった。
最初、「大竹しのぶ」は娘かと思った。
観ていれば実は妻の役だということは、すぐにわかるのだが・・
もう少し高倉健の年齢と釣り合う女優さんなら、さらにリアリーティが出たはず。
惜しむらくは、日本映画につきものの、テンポの悪さが、映画の中盤くらいから気になり始めた。
それまでは、高倉健と小林稔侍とのやりとりの妙などで、テンポについては気にならなかったのだが・・
少女が登場し始めると、せっかくの高倉健の存在感が薄くなってゆく。
勿体ない。
たとえば、ストーブのそばで珈琲牛乳を振る舞われた少女と、駅長分する高倉健とのやりとりのシーンだ。
「目をつぶって」といった瞬間、正直「こりゃあまずいな」と思った。
普通日本のあれくらいの歳の子は、たとえ父親であってもキスはしないだろう。
ましてや見ず知らずの駅長にというのは、あり得ないハナシだ。
こうした違和感は、幻想だということが分かったとしても、依然妙な印象として残ってしまうのだ。
それまで積み上げてきた、高倉健のよさが、このワンシーンでもって激減してしまった。
普通あれだけ説明しまくる日本映画なのに、夢や幻想ではなく、あたかも現実の延長線上のような演出なのだ。
そのあとで、酔いつぶれていた小林稔侍が、「こんな夜遅くに子供が忘れ物の人形を取りに来るのはヘンだ」というシーンがある。
ここで観客は、気がつくのだろうが、それにしてもねえ・・
そしてそのあと、子供は人形を置いたままで帰り・・シーンは朝に切り替わる。
子供がキスをした瞬間、高倉健が夢から覚める・・・
オレが監督ならそうするけどね。
子供がいきなりキスをするという不自然さは、この手で帳消しにできるはず。
制作陣の誰一人として、そういう提案を出さなかったのだろうか?
シロウトのオレだって、それくらいは思いつくのにだ。
そしてさらにまずいのが、広末涼子。
生まれたばかりの一人娘を病気で失ったが、成長した娘が幻想で登場するというシーンのことだ。
ここも一人の鉄道ファンの少女が現れたときと同じ現実の延長線上なので、これはたぶん娘を幻想しているのか・・
とはだんだんわかってくるのだが、それにしてもまるで現実の出来事のようだ。
幻想なら、最初からすぐに気がつくようにすれば、高倉健と広末涼子とのやりとりが妙に長くなることは避けられただろう。
現実ではなく、死んだ娘が会いに来ているのだという説明をするため、どうしてもあの長さになってしまうわけだ。
だが広末涼子のあの演技力で、あの尺のシーンを撮るのは酷というもの。
前の少女とのシーンだけではなく、他の娘とのシーンもそうなのだが、ここは制作陣が「うかつ」だった点ではないだろうか。
亡くなった子供をあれだけ何度も登場させるのは、やり過ぎだろう。
毅然とした「ぽっぽや」の存在感と凜々しさという、高倉健の持つ演技の魅力を、萎えさせてしまう恐れのある要素は、徹底して取り除くのが制作陣の仕事なのではないだろうか。
仕事を何よりも優先させなければならなかったがために、家族を顧みることができず、娘の最後を看取れなかった父親と出会う成長した娘。
これがどれほど重要なキャスティングなのかは、言わずもがな。
高倉健を生かすも殺すも、娘役のキャスティング次第なのだという、「こと」の重大さを、制作陣は見誤ったのではないだろうか。
映画の感動の度合いを、最高潮に引き上げることができるかどうかは、ひとえに、この娘役の演技に掛かっていたわけだ。
さらに引っかかったのがエンディング。
何と最後に駅長は駅で倒れて死んでいたのだった。
もうちょっと何とかならなかったのだろうか?
あれではまるで野垂れ死にだ。
死を暗示させるため、あのような映し方をするくらいなら、あのシーンはない方がいい。
そのあとのシーンで、友人達に担がれ、列車に乗せられてゆく棺が映るのだから。
娘との出会いで心変わりし、唯一の親友とも言える小林稔侍の勧めに従い、最後の列車で新しい門出に旅立つ。
こういうハッピーエンドでは何故ダメなのだろう?
原作がそうなっているから、変更はできないという事情が、あるのかもしれない。
そうであれば、さらに表現方法を工夫し、高倉健の魅力を最高に引き出した名作ここにあり・・
と言われるレベルに仕上げて欲しかった。
前半がよかっただけに、実に惜しい。
娘の死に目にも会えず、妻にも苦労を掛け、親友の思いやりも無にしたままで、頑固を貫き通した身勝手さでもって、最後に死んでしまう鉄道員。
それが多くの鉄道員達の本望であり、さらに亡き娘や妻が望むならそれもいいだろう。
だが本当にそうだろうか?
高倉健があそこで死んでしまう「美学」もいいが、見終わった後で素直に「よかった」と思わせてくれても、いいのではないか?
と、ふと思った次第。
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