原題:Unforgiven は第65回アカデミー賞・作品賞受賞作品でアカデミー作品賞を受賞した3作品目の西部劇だ。
2013年には舞台を日本に置き換えたリメイク版が渡辺謙主演で制作されている。
WOWWOWで、この2作品が連続して放映、録画されていた。
リメイク版は、2011年5月に李相日監督がオリジナル作の著作権を持つアメリカの映画会社・ワーナー・ブラザーズへ持ち込み企画された映画らしい。
ワーナーとイーストウッドから製作許可が下り、脚本執筆が始まり、2012年6月に李監督の脚本が承認され、最終的な製作許可が下りたという。
ストーリーはオリジナルと全く同じで、ただ舞台が日本に移っただけ。
時代も細部も、そっくりな仕上げとなっている。
オリジナルのイーストウッド版は、それまでの彼の代表的な作品の持ち味だった、「勧善懲悪撃ちまくり西部劇」とは全く違った「カッコ悪さによる徹底したリアリティ」で作られている。
主人公は年を食って弱くなったガンマン。
映画の中で、まともな人間は、簡単にポンポン人を殺せるわけではないと告げられる。
世の中、どっちが正しくてどっちが悪いというように、はっきりしているわけではなく、必ずしも正義が勝つわけでもない。
亡き妻により正しい生き方に気づいたが、成り行きで多くの人を殺してしまった過去を後悔するだけの人生を送っている。
という前提で、ハナシは進んでゆく。
映画を見終わると、観客はそれまで正しいと疑わなかった物事や人物像が「許されざる者」になってしまった・・という衝撃を受ける。
マカロニウェスタンで一世を風靡したイーストウッドが、自身の手で、その様式美を破壊してしまったのだ。
だからこそ、観客は衝撃を受け、こうした革新的な姿勢が高く評価され、アカデミー賞を受賞している。
だがリメイクされた2013年公開の日本版では、こうした部分がそっくり抜け落ちている。
そのためリメイク版は、ハナから大きなハンディを抱えてのスタートになってしまっているわけだ。
リメイク版が抱えるこうしたハンディを挽回するためには、奇抜で革新的なアイデアが必要となるのだが・・
この部分に捻りやアイデアがなければ、ハナから勝負にならないことは、火を見るより明らかだ。
我々一般の観客でさえ、そう感じるのだから、制作陣は当然周知していたはずなのだ。
そもそもストーリー自体が、アメリカから日本へ舞台を変えたからといって、それだけで同じように面白くなる素材ではないのだ。
むしろ日本に置き換えることで、荒唐無稽な設定ばかりが気になってしまっている。
復讐をこっそりを依頼するならともかく、客商売の女郎たちが、大っぴらに復讐代行者を探すなんていうのは、当時の日本では、不自然極まりないことだったのではないだろうか。
だからこそ、何らかの工夫が必要だったのに、オリジナルをそっくりそのまんま、「なぞってしまった」わけだ。
観客はチャンバラ時代劇に対し、勧善懲悪のスカットした後味を求め、映画館まで足を運ぶ。
座頭市・子連れ狼など、人気のあるチャンバラ時代劇は、様式美の塊なのだ。
しかも、この映画を見ようとやってくる95%以上の日本人の観客は、イーストウッド版を見ていないのだ。
もちろんオリジナル版でも、イーストウッドが出演するこの映画に「例の西部劇 を期待してやってきたわけだ。
この部分までは、日本のリメイク版と同じ展開といえるだろう。
だがこうした期待を、イーストウッドは、巧妙に裏切り新しい西部劇を見せたところに、この映画の価値があったのだ。
一方日本版では、観客は「いつものチャンバラ時代劇」 ではなく、「アイヌ絡みの北海道開拓時代に無法者が賞金稼ぎをするという不可解なハナシ」を見せられることになる。
イーストウッド版を知らない普通の観客には、何故こういう背景設定なのかがイマイチよくわからない状態で鑑賞するわけだ。
当然のことながら、観客は見終わってスカッとするわけがなく、なんだかイマイチで割り切れない想いで映画館を後にすることになる。
たぶん李監督は、こうした背景を日本人以上にわかっていなかったのだろう。
李監督は「今の日本で時代劇を撮るなら、簡単には割り切れない善と悪をテーマにしたい」などと語っている。
このようなテレコテレコが重なり、観客にとってこのリメイク版は、もの凄くフラストレーションの溜まるチャンバラ時代劇映画となっている。
というわけで、興行収入はクリントイーストウッド版の159億円に対し、日本版は7億円。
イーストウッドが見せた新しい様式美も、20年余の歳月が流れ、今や普遍的なものとなってしまっている。
だからこそ、今の時代にリメイクをするのなら、オリジナルが見せた様式美を、さらに裏切る作りにすればよかったのだ。
主人公は年を食ったがいまだに強い武士崩れ。
気に入らない者への情け容赦のなさ。
自分が悪いと決めたら容赦なく斬る。
必ず正義が勝つと信じている主人公。
昔とった杵柄はさらに洗練され、機会あらばと虎視眈々と生きている。
オレならこうした真逆のヒーロー像で、リメイクするだろう。
座頭市・子連れ狼など人気のあるチャンバラ時代劇は、様式美の塊だということを思い出してほしい。
日本では、躊躇することなく、様式美の王道を行けばよかったのだ。
アイヌ絡みの北海道開拓時代で無法者が賞金稼ぎをするという不可解なハナシであっても、様式美さえあれば怖いモノなし。
どうせリメイクなのだから、と居直るべきだった。
日本の観客は、チャンバラ時代劇に対し、勧善懲悪のスカットした後味を求め、映画館にやってくるのだ。
日本の映画人たるもの、このことを忘れてはならない。
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