珍しくカミサンが冷凍ギョウザを味見してくれと、味の素のギョーザが登場。(笑)
TVで紹介していたらしく、番組の中でタレント達が、もの凄く美味しいと絶賛していたという。
超簡単な調理で誰でも失敗なく、おいしく焼けるというのが売りらしい。
食べてみると、不味くはないが、美味しいというほどでもない。
冷凍ものにしては、食べられないほどまずくはないが、美味しいと言い切るほどではない、というところか。
具体的には、ギョーザの皮の中に詰まっている具の「うまみ」が薄い、といえばいいだろうか。
だが食べ物の味は好き嫌いに加え、普段食べているものの基準が、どのあたりなのか?によって大きく変わるもの。
たとえば2食を抜いてかなり腹ペコの状態で、この冷凍ギョーザを食べたら、もの凄く美味しく感じるかもしれない。
普段の日常生活で、そんなに極端な空腹状態で食べる、などとということは、まずないだろうけどね。
このように、我々の五感は、毎日の生活の中で習慣化され、それがその人の基準となってゆく。
味覚・視覚・嗅覚・聴覚・触覚に加え、第六感も人生経験の蓄積によって構築されてゆくわけだ。
こうしたいわゆる「受け身」に属する能力は。当然経済状態によって大きな影響を受けることになる。
たとえば、不味いワインばかり飲んでいると、そうしたワインの味が普通という基準になるため、それほど不味いとは思わなくなるわけだ。
だが美味しいワインを普段から飲んでいると、だんだんと舌が肥えてくることになる。
そうすると不味いワインを飲むとすぐにわかるようになり、できれば「飲みたくない」と思うようになるのは、当然の成り行きだ。
このように味覚に関するものは、比較的単純な要素で構成されているが、要素数が多く、しかも少し複雑に絡み合ってくる場合はどうだろう。
たとえば車の評価というのは、5感全てに関わる要素が含まれているため、いい悪いの判定が難しくなってくるのだ。
聴覚はエンジンや路面からの音、視覚は車のデザインや内装色、嗅覚は車内のニオイ、触覚はシートやステアリング・ブレーキ・加速などの要素というように、多岐に渡るからだ。
唯一味覚だけが判定の基準に関与しないわけだ。
内装の皮のシートを舐めて、味がどうのこうのという話は聞いたことがないからね。
そういう人は、たぶんどこかの病院に居るはず。(笑)
一般的に車選びが難しいのは、比較的複雑な感覚へ訴える構成要素がクルマの値段と、どのあたりで折り合いを付けるかの選択肢の幅が、余りにも広いからではないだろうか?
とはいえ、払ってもいいという金額は、おのずと決まってくるため、まだ救いはあるわけだが・・
ただ、プリウスの新車に250万円を払える人は、10年落ちのポルシェボクスターなら手に入れる事ができるということを知ってしまうと、またハナシは変わってくるかもしれない。
さらに、純粋に移動の道具としての側面と、趣味性との割合によって、選択肢がラクになるのか、それともさらに悩ましいものとなるのかが、大きく変わることにもなるわけだ。
私の場合、ポルシェ911との生活が、いわゆるクルマの味に関する基準の決定に大きく影響している。
このようにいわゆる、ハッキリとした味の濃い物差しができあがると、意外にも以後の白黒はつけやすくなるようだ。
ものすごく美味しいものを食べると、舌が味を覚えるだけではなく、強烈な印象としてアタマに残るのと同じ事なのだろう。
これは人間関係にも言えるだろう。
一緒に暮らした相手は、いわゆるお金で買えるモノより、遙かにその人の基準に大きな影響を与えることになる。
そしてそれは、お互い様の関係でもあるわけだ。
言い換えれば、自分の基準を上げる努力は、連れ添いにも反映されるということ。
当然相手の基準によっても、影響を受けるわけだ。
基準が同じ方向へ動けば、相乗効果となり、あたかも掛け率の高いギャンブルのように、跳ね上がる。
逆もまた真なり。なので気をつけないとね。(笑)
離婚や死別は、そこでレートは止まるか下がる。
一生独身の人は、横ばいのまま。
お互いの切磋琢磨さえあれば、継続時間に比例し、あとは天井知らず。
となるのだろうか?(笑)
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