体験の料理方法

コメント(0)

自分の毎日の生活や体験を文字にするのは「自分による見聞録」のため、比較的楽に書くことができます。

旅行をしたりおいしいものを食べたり、などという自分の内なる感動を文字に変換するのは、「ネタ」的には最も簡単な方法です。

ですが、それを読んで面白いかどうかは、また別問題。

 

第三者的な視点で、自分だけの「関心ごと」を見たときに「肯定的な内容」ばかりだと、刺激のない凡庸な印象で終わりやすいのです。

自分の体験を文章にする場合に、最も陥りやすいパターンだといえるでしょう。

そしてまた、自分のトレードの記録を公開する場合も、同じような傾向になりがちです。


毎日の私的な体験が、他人にとっては面白くなく感じてしまいがちなのは、何故なのでしょうか?

自分の体験や感動という「素材」だけを並べただけだと、自己満足と自らのエゴを羅列しただけのものとなりやすく、そこでは単に完結した閉鎖的な世界が展開されているに過ぎないからです。

外に向かって発散するものや、せめぎ合いや葛藤などがないと、他人の目からは「刺激のないつまらないもの」に映るのです。

 

20120708experience02.jpg 

 

自分が大事なために、自分や、家族を含めた自分のまわりの人間関係だけに対して関心が向いているものは、いわばプライベートな世界で終わってしまっています。

ですがそこに疑問や問いかけという「何故?」が含まれると、文章は俄然輝き出します。

「自分に対する疑問」は、私的な世界を公的な世界へと導くためには、欠かせない要素です。

「自分はなぜ、そうなのか?」という視点を自分の内側へ向け始めると、社会との関わりについて考えざるを得なくなるからです。

 

そうした疑問を書き、公に提示するには、それを考え、そして必要に応じて調べる必要性が生まれます。

こうした作業を繰り返すことで、どんどん次のステップへと進むことができます。

自分の今ある世界をすべて「イエス」を前提として構成していては、公的な関心が介入する余地がないのです。

そのため、こうした作業を通じて、読んでもらえるような関心が入り込む「スペース」を作る必要があります。

 

たとえば引っ越し先を探すとき、「自分の好みや住みたいところ」というような「内なる自分のエゴ」だけでは、意外と候補地を絞り込むことができないものです。

何故引っ越すのか?何故そこに住みたいのか?自分の毎日の生活にとって何が最も大事なのか?何を捨てることができるのか?

などというように、最初のひとつの疑問が、次々と次の思考ステップへの扉を開くのです。

自分の内にある、無意識の考えを含め、もういちど白日のもとに「それら」を引っ張り出し、明るいところで見直すという作業は、やってみると意外とエキサイティングで、心躍るものです。

 

20120708experience01.jpg 

 

カビの生えかけた考え方が原因だったり、自分の関心が実は意外な方向を向いていた、などといった新しい発見が、自分を変えるための大きな原動力となります

今までの人生経験をもとに、自分を客観的に眺め、そして自分を自分の好みに仕立てあげる。

自分以外にはけっして触れることができないこうした部分を、手つかずのままで放置しておくと、内なるものは次第に色褪せそして輝きを失い、老いや無気力、倦怠感などを、はびこらせることになるのです。

それを少しずつでも変えようとする意志のチカラによって、内側から違った色が加わり、徐々に輝きを取り戻す課程が、他人の目にどう映っているのかは、受ける眼差しが何よりも物語ってくれるはずです。

 

 

コメントする

2012年7月

« 前月 翌月 »
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

2012年7月

月別アーカイブ