私の息子は自閉症のため、28才になっても1才の子供と同じかそれ以上の手間が必要で、これは多分彼が死ぬまで、いやそれよりも先に、私やカミサンが死ぬまで、こうした状況を続けなければならない。
こうした障害を持つことの大変さを、普通の子供を持っている親が、同じレベルで理解することなどいうことは、不可能なのだということは、障害児を持っている親なら、程度の違いはあれ、誰もが理解している。
だからこそ、その世界を知らないものが、何らかの理由で関わるときは、注意が必要だ。
普通だと、大したことはないと思われる、不注意によって受ける心理的な影響は、予想できないほど大きいと考えていいだろう。
息子の通っているデイケアの施設を、我々家族は通称「センター」と呼んでいる。
そこでは、様々な自立のための訓練をしたり、散歩に行ったり、バスや船に乗ったり、遠足へ出かけたりということを、スケジュールに沿って実施してくれる。
朝9時頃から夕方までの間、親の代わりに面倒を見てくれるありがたさは、障害児を持つ親になったからこそわかることなのだが、もちろんそれは、親の愛と税金とで賄われている。
センターはまさに別世界。
動けない娘は、涎を流したまま車椅子に座り「うーうー」と声ならぬ声を上げている。
見かけはまるでオッサンだが、顎の下を撫でてくれと、人なつっこくすり寄ってくる。
このように、センターの中は、普段私たちの生活空間とは余りにもかけ離れている。
最近の懇談会でカミサンは、センターにいる間、水だけはしっかり飲ませてくれと念押ししたらしい。
普段からペットボトルの水を何本かバックパックに入れているのだが、どうも飲んでいる様子がないのだ。
だがセンター側では飲ませているというのだが、もしそうなら、帰ってからあんなに水を飲むわけがない。
だが昨日彼は帰宅してから、何度もトイレに行きたがり、夜は布団の上で2度も漏らしてしまった。
もちろん彼の布団とマットレスの間には、ゴミ袋を挟んである。
だが服やシーツを含めた選択の手間は増えるわけだ。
この出来事から、センターでは普段から水を十分に飲ませていないことがわかるのだが、だがだからといって、いわゆる状況証拠だけではどうにもならない。
日本では、こうしたデイケアセンターの人たちの給与水準は低く、しかも若い人が多いので、決められた「気遣い」しかできないのだろう。
東京や千葉など、多くのデイケアや宿泊できる日本のセンターはどこも同じようなもので、神戸でもそう大きな違いはない。
それに、どこへ行っても障害者本人がタバコを吸うケースをよく見かける。
ケアセンターの先生方も、喫煙所で一緒になってタバコを吸っている。
センター側はは室内ではなく、喫煙場所で吸わせるようにしているから、特に問題ないというスタンスだ。
障害者の喫煙をヤメさせる気配など全くなし。
障害者の親がタバコを吸うケースでは、子供が不憫なため、せめてタバコの楽しみだけでも・・という考え方をする人が少なくない。
健康はもちろんのこと、火に関連する事故のリスクは、障害がある分高くなるのにだ。
教育とは何なのだろうか、と改めて考えてしまう。
カミサンは、思い余って、どうしてタバコをやめさせようとしないのですか?と尋ねたらしい。
先生曰く、困ったように「どうすればいいのでしょうか」と問い返したらしい。
親ごさんに、やめるように話してみてはどうなんですか?
というと、「はあ・・」という心もない返事が帰ってきたという。
シアトルでも、先生方の給与水準は日本と同じように、他の公務員より低い。
だが、好きでこの仕事についている人の割合は非常に高く、最もうらやましいのは、しっかりしたスーパーバイザーが居るという点だ。
こうしたケアセンターで、タバコを吸わせるなどというのは論外のハナシなのだ。
こうした社会的弱者へのケアや教育システムの日米差は、体験した人でなければ想像持もつかないだろう。
最初、こうしたセンターを訪れたときのことは、今でも鮮明に覚えている。
センターを後にして、自分の生活している世界へ戻ったとき、この体験をどう受け止め、自分の頭の中で整理すればいいのかがわからず、狼狽してしまったのだ。
だがいくら考えても、今の私が、よく知っているとは言えないあの世界を、直接変えることなどできない相談だ。
障害児を持つ親にとって、人生悪いことばかりではない、ということを実感するときがある。
苦難にぶつかったときというのは、どこかに大きなチャンスというドアが用意されているということでもあるわけだ。
ドアを開けるには、自分を含めラクになる考え方を工夫することだ。
最も効果的に、そしていますぐにでも変えることができるのは、まずは自分の生きている世界でのハナシだ。
彼にできないことを、私が代理として私の生きている世界で実行する。
健康な子供を持つ親が、こうした考え方に辿り着くチャンスは、万が一にもないだろう。
このように障害児を持つ親に対しても、神は平等にその分け前を与えてくれている。
そのことを実感できるという機会は、そうそう誰にでも訪れるというものではない、というのもまた現実なのだ。
自分の生きている世界で、毎日楽しく、そして有意義に、彼の分も含め精一杯過ごす。
この当たり前のことを、意識しながら生活をする、という意味を、言葉で説明するのは、難しい。
けれど「神は平等にだれにでも、きちんと分け前を与えてくれる」ということが、毎日実感できるのは、彼のおかげなのだ。
ただ、息子との二人分だから、ちょっと疲れるけどね。(笑)
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