今日は、ちょっと珍しい映画の楽しみ方について。
「ドリヴン」と「CURE」という2本を立て続けに見るという、かなり振幅の大きなコンビネーションのご紹介。
「ドリヴン」は、1994年のレース中に事故死したアイルトン・セナに捧げるため、シルベスタ・スタローンが自ら書き下ろし100億円以上の制作費が投入された2001年の作品。
たまたま、スターチャンネルで放映していたので見てしまったのだが、監督は「ディープ・ブルー」「クリフハンガー」のレニー・ハーリン。
ストーリーは、引退していた元花形レーサーと期待の新人レーサーがタッグを組み、チャンピオンを目指して戦うという単純なもの。
主役は「ロッキー」でおなじみのスタローン。
スタローンが脚本を書いているせいだろうか、ロッキーのように困難を乗り越えて復活するという中年男のダンディズムに、青春映画 のエッセンスをパラパラと振りかけたような作りだ。
出演している俳優たちは美男美女を揃えているのだが、その割に人間関係は取り立ててどうのということはないレベルで、実にあっさりしたもの。
元恋人や、若いレーサーのラブストーリーやマネージャーとの確執など、いわゆるお約束の人間関係を描くだけ。
だが、だからといってそれがこの映画の致命的な欠点となっているかというと、必ずしもそうとはいえないのが面白いところだ。
どちらにしろこの映画の見どころは、大枚の制作費を投入したレースシーンと、ド派手なカークラッシュ シーンしかないわけで、人間関係などのドロドロとした部分はバッサリと切り捨て、とにかくもの凄い割り切りで作られているのが、良くも悪くもこの映画の特徴となっている。
スタローンは最初F1の世界を撮ろうと思ったらしい。
だが、撮影開始時にはシーズンが始まっていたうえ段取りをしてみると、映画とか俳優は単なる邪魔者になるだけだということで断念、カートのレースを使って撮影したのだという。
カーレースのに少しでも詳しい人なら、まさに突っ込みどころ満載なのだが、全くそういうことに疎い人には、「そうなんだあ・・」と思えるような作りになっている。
ウチのカミサンには、F1の中継を見ていると、よく「同じところをグルグル回ってるのを見て何が面白いの?」って言われるのだが、その彼女は、この映画を見て結構迫力があって面白いと言ってたので、制作陣はまさにこうした観客をターゲットにしているのだろう。^^
興行的には、そこそこヒットしたというが、とにかく見終わると「スカっとさわやかコカコーラ」のようなドライさで、 見終わった後で何も残らない。(笑)
だが悪い後味も残らないので、お気楽に飛行機の中などで、時間潰しのために見るにはいい作品だろう。
さてこの「ドリブン」の対極に位置するのがレンタルDVDで借りた「CURE」。
高部刑事扮する役所広司と間宮という謎の人物を演じる萩原聖人が主役のホラー?というかミステリー映画。
最後まで見ても、この映画の意味するところがよく分からなかったので2回見たのだが、それでもどうなっているのかは分からずじまい。
たぶんこういう映画とは相性が悪いのだろう。
というのは、私には解せないシーン多過ぎたからだ。
たとえば最初の殺人のシーンでは、バックグラウンドの音楽がやたらコミカル。
普通こういうシーンは内容を暗示するかのような暗い、不気味な雰囲気の音楽を使うのだが、この映画では「私にとってはもの凄く違和感のあるコミカルな音楽」が使われている。
何か意図があるのだろうが、何故そこでこうした音楽を使ったのかは映画を見終わっても、ついに分からずじまい。
そしてそのシーンの途中で高部刑事扮する役所広司が車を運転するシーンででタイトルが表示されるの だが、このシーンで、どういう映画かが、よくわからなくなってしまった。
「ドリブン」は、とにかくストーリーや展開がわかりやすく、何も神経を使わなくてもいいように作られているが、あそまで徹底されると、かえって小気味よいという味になってくるほどだ。
一方の「CURE」では、最後の方で何の説明もなしに、不気味な建物がいきなり登場したり、現実だと思っていたら、それは実は妄想シーンだったというように、もう何でもあり状態になってしまっている。
映画の始まりの肝心な冒頭部分では、殺人の現場検証の場面で刑事か警官が「被害者は売春婦です、いつかこういう目に遭うんだよなあ・・」という台詞 を吐いたりするのだが、普通こういうところでこういうセリフは言わないよなあ・・と、冒頭の大事なシーンだけに、気になってしまった。
一方の「ドリブン」では、こうした違和感は全くゼロというか、余りにも謎も何もなく、すべて明るいライトの下にさらけ出されたものを見ているかのようだ。
それはそれで「何だかなあ・・」と物足りなくなるのだが、その代わり映像でもって、これでもかとばかりに、レースや車の魅力の断片をテンポ良く配置し、映像的には徹底して飽きさせないような作りになっている。
ストーリーや人間関係が面白くないから、だから何のだ!とばかりに、そういうことを気にしている暇がないほどのテンポで、派手で動きのあるレースシーンやクラッシュシーンが目の前で次々と展開されるからだ。
たとえば、車のアクセルやブレーキペダルの真横からの至近距離でドライバーの足の動きと、車の動きをシンクロさせ、最高のリアリティーを出すために最大限の注意を払って作られていることがわかる。
対して「CURE」は、最後まで暗くてよく分からないというか、謎が多すぎるうえ、そうした疑問に対しての説明や解釈がほとんど見えないため、見終わってから、もの凄く欲求不満になってしまった。
「CURE」全体に通して共通している特徴のひとつとして、引いたカメラ目線が主体で、映画特有のシーンの切り替えがなく、映画なのに舞台を見ているような撮り方をしているという点があげられるだろう。
わざわざこういう映像表現をする意味がよく分からないのだが、私の想像では多分予算の関係でカメラの台数が少ないからだと思う。
それとも他に何か特別な意図があるのだろうか?
たとえば、刑事と精神科医の会話で は、映画の伏線と思われる内容の台詞が続くのだが、これはどうやら観客に状況を説明するためだと思われるのだが、これはいくら何でもやり過ぎ だろう。
制作側の意図は、あたかも役者の言葉の説明通りに解釈してください、とばかりに事細かに言葉で解説されるのだが、肝心の何故こういうことになるのかはわからずじまい。
というわけでどちらにしても想像力を働かせる余地がないため、私には全く面白いとは思えない映画となってしまったというわけだ。
まさに舞台演劇を見ているかのような映画で、映画として見てると違和感のあるカメラワークだといえるだろう。
こうした点を、大多数の観客はどう感じているのだろうか、などという点が逆に気になってしまったほどだ。
こういうところは普通、映像を重ねることで観客へ想像を喚起させて興味を引っ張る、というのが、基本的な手法だと思うのだが、とにかくセリフの多い映画だ。
刑事役の役所広司と精神科医の演技で救われているが、萩原聖人の演じる「記憶喪失になった男」がそれらしく見えないのも痛い。
まあそれが不気味さを醸し出している演技なのだと言われれば、それまでだが、とにかくどのように面白さを見つけようと努力して見ても、こういう感想になってしまうのだ。
残念なのだが、とにかく私の感性とは合わないのだろう。
この感性に嵌れば多分「もの凄く面白い映画だ」ということになるのかも知れないが、とにかく私にはお手上げだった。
せっかく勧めてもらった映画の映画評としては、なんだか申し訳ない映画評になってしまったが、他意のない正直な感想を書くとこういうことになってしまったというわけなので、ご容赦いただきたい。
この2本の映画は、とにかくこのような「対極」に位置している。
どちらかを見てから、もう一本の方を見ると、どちらも非常に引き立つということは確かだろう。
というわけで、ワンセットで見ると、「一粒で二度おいしい」、気はするかも知れない。
しかし、歯切れの悪いエンディングだよなあ。(笑)