書くことが苦にならなくなり、量を書くことが面白いと思うようになると、書いているうちに量をこなす自信が、モチベーションを高めてくれるということがわかるようになる。
必然的に質は徐々にだが高くなってくるような気がする。(笑)
毎日書き続けることで、自分の向いている方向が、自分と向き合いながら文字に残すという作業を通じ、客観的にわかるようになるからかもしれない。
これは、他の手段ではなかなか実現できないことだろう。
モチベーションやさまざまな気力を支えるためには、自分が生きる意味を確認できる実感を持つパワーが不可欠だ。
これは自分でやるしかないことなのだけれど、それを人に求めると、誰も支えてくれない、という事実と向き合わなければならなくなる。
それを何とかしたいという強い願望は、誰かに自分の話を聞いてもらいたいという思いへと変わり、携帯でのメールのやりとりで、空しさを埋めようとすることになる。
だがそうして自分を分かろうとしても、それは叶わない。
話すことでエネルギーを吐き出してしまうと、書くための圧力が抜けてしまうことがある。
書くことによって、自分の感情を客観的に見つめるというのは、最初は難しくまた苦しいものだ。
だが自分のことを話したいという欲望を書くチカラへ転化させると、自分を掘り下げることが容易になるのではないだろうか。
言葉と違い、書くことで自分を支えることができるのは、自分の書いたものを自分の目を通して、もう一度自分の頭の中へインプットし直すことができるからだろう。
毎日自分をもう一度見つめなおすことは、自分を肯定することに繋がり、それが自分への自信として蓄積されることで内から湧き起こるチカラとなり、明日を支えてくれることになる。
こうしたチカラが存在することは日記が文学として残っている「証」からも知ることができる。
苦もなく量を書くことができるようになると、考えを巡らせるチカラとその量も比例して高まり、またその思考の質も当然向上することになる。
そう考えることができるのが、まさに書くというチカラの成せるワザなのかもしれない。