先日ふとコーヒーを飲みたくなり、繁華街に位置するスターバックスコーヒーへ立ち寄ったのだが、コーヒーを持って、ガラスのドアを押して外に出ようとしたら、外からちょうど人が入ってきた。
こちらが先に出ようとしているのに、お構いなしだ。
少し待てばいいのだから、どうそお先にと待つことにした。
後ろにも店の外へ出る人が続いているから、ドアを持って開けていたら、後ろの人は大慌て出てきたが、私の後ろの人は、その後ろの人のためにドアを開けておこうということまでは気が回らないようだ。
続けてその後ろの人のためにドアを開けていたら、そこで気がついた人は慌てて「ありがとうございます」と、申し訳なさそうに礼を言ってくれた。
すこしホッとした空気が生まれたが、それは伝染することなく消えてしまった。
プレッシャーも伝染するが、リラックスだって伝染させることができるのだけれど、周りの人たちは、心そこにあらずの状態だった。
一息入れるためにコーヒーを飲むのだから、もう少しリラックスすればいいのに、この駅の近辺は特にそうなのかもしれないが、みんなまるで何かに衝かれているようだ。
少なくとも私の目にはそう映る。
日本では車を運転するときには、道を譲るという一日一善を励行しているが、これは結構応用が利くため、急いでいる人がいれば先に行かせてあげるようにしている。
そうして意識した状態で周りを見てみると、みんな思いやりがなかったりするのではなく、時間に追われることでそうなってしまっているということがよくわかる。
急ぐと他の人が見えなくなり、障害物のように思えてしまうのだろう。
ペースがあまりにも速すぎると、思いやりがなくなり、無礼な態度にもなってしまい、それが当たり前になってしまう。
時間がないとこぼす人は多い。
正確に言うと「自分のやりたいことをすべてやるための時間がない」だけなのだ。
自分勝手な目標を達成することとの引き換えに、人に対する思いやりの気持ちを失っていることに気がつかなくなってしまう。
だがこうしたことに無関心でいると、そのツケは必ず回ってくるものと、相場は決まっている。
急いでいる状態が続くと、とっさに急いで行動する習慣となり、その「とっさの反応」が適切な判断に取って代わるという事態が生まれることになる。
じっくり検討するという余裕がないから、慌てふためいて判断することになる。
車だって、スピードを出しすぎると、コントロールがだんだんと効かなくなってくる。
常に急いでいる人は、人間の心も同じことだということを忘れているから、急ぐ心で過ごしているという状態は、オーバースピードで走っているのと同じリスクを背負っていることになる。
すると周りに気を配ったり、警告のサインを見落としたり、事故を防ぐための判断をするための時間がなくなったりして、物事を的確に判断することができなくなってしまう。
ただ反射的に行動することになり、それが繰り返される。
このように感情的な反応、同質の欲求が繰り返されると、それが強い衝動に代わり、ちょうどタバコをやめられなくなるように、習慣性を持つことになる。
急ぐ大人に急がされて育った思春期の人間が、突拍子もない衝動的に見える行為で事件を起こすのは、こうした、「急ぐ心」が生み出したともいえるのではないだろうか?
「急がず、慌てずにこの方法を身につけてください。」
セミナーでは、最後に常に繰り返している言葉だが、その言葉には先ほどから書いているような意味を込めているのだが、急ぐ人は違う意味に理解しているかもしれない。
あまりにも多くのことを一日に詰め込んでしまうと、自分が遅れているように錯覚することがあるのは、誰もが一度は体験していると思う。
皮肉なことに、急げば急ぐほど結果的に時間を失い、時間を締め出すことになってしまう。
一日をゆったりとした気分で過ごし、毎日起こることに対して注意を払いながら、優先することだけに集中するようにしながら生活するということを、私たちはつい忘れてしまう。
とくにパソコンや携帯電話を使っていると、そういう傾向に拍車がかかる。
だから、「急がない」ことを少し心がけるだけで、イライラやストレスを減らし、自分をコントロールしながら、充実した毎日を過ごすことができるのではないだろうか。
ちょっと気分を変え、ゆったりとした気分で一日を振りかえりながら、日記を書いてみると、意外に書くことが見つかるかもしれない。
時間の使い方の最も下手なものが、まずその短さについて苦情をいう -ラ・ブリューエール
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