仕事のハナシはさておいて、今年を振り返ってみました。
私の場合、政治や時事問題などをテーマにして書くことは、多くのテーマの中でも、依然として非常に少ない割合となっています。
その理由は、自分一人のチカラで変えることができないことに対して、クビを突っ込んでいられる時間が、どんどん少なくなってきているからです。
ただ、原発事故については備忘録を兼ねて、国の対応や私に見えている現状について、書きたいことを書いてきました。
なぜなら、今までの経験から、こうした混沌とした状況では、文字で書くことによって、さまざまな精神的混沌と向かい整理することができたからです。
このメリットは、多くのブロガーの方も何となく感じられていたと思います。
いってみれば、それだけ大変なことが起こったわけです。
「精神的混沌」と一般的に呼ばれているものの実体なんて、実はないのかもしれませんが、文字や言葉を使ったガス抜きは結構効くのです。
自分で勝手に溜めたガスであってもです。(笑)
人間の悩みや不安というものは、あとで冷静に分析してみると、大半は言葉の混乱などによって、より複雑化され、それがまた人の言葉の影響で、さらに混沌としてしてしまうことが多いのではないでしょうか。
だからこそ「書く」ことで、混沌を実体化させ、「混沌とした現実」からの支配力を和らげようとするのかもしれません。
現実というのは、国家や自治体、カイシャなどの大きな複数の組織によって合理化システム化されて運営されるため、誰もが大なり小なり、その影響を受けることになります。
合理化という名目によって、医療や産業、娯楽や教育などあらゆる分野では「進歩」に比例し、その度合いは時代と共に、どんどん高くなっています。
そのため、こうした「現実」の壁やシステムにぶつかり阻まれ「身動きできない気分」になる度合いはより強くなり、それが高いストレスとなるわけです。
「現実」は、このように多くの要素が重なりあい、流動的に変化をしながら、時間と共に流れて行きます。
こうした状況での対策の一環としてかなり効くある方法があります。
それは、ある時点で切り取る、つまり一旦時間を止めるわけです。
このようにそれぞれの要素が固定された状態でもって分析整理するのです。
そうすれば、考え方や意識を向ける方向性を、ある程度時間をかけて決めることができます。
その結果として、具体的にやるべきこともはっきりと見えてくるからです。
こうした際に記録としてに使う「文字」は、時として武器にもなり、あるときは想像力や表現をも広げてくれるツールとして使えるわけです。
毎日の「現実」と向かい合い、どうしても「そり」が合わないときは、そこから脱出したり方向転換をするという手があります。
そのためのプラン作りに、文字を使っての「書く」という作業は、とても効果があるのです。
書くことによって、想像力と現実との問に橋をかけ、両者の問のグレーゾーンを広げ、自分が動ける範囲を広げてゆくことができるからです。
そのためには、両者の境目を「あやふや」というか「フニフニ」?にする必要があるわけです。(笑)
夢と現実があまりにも明確に分離されていると、想像力は働かず、夢もなくなり、結果として楽しさが感じられない毎日を過ごさなくてはならなくなります。
そのため、こうしたグレーゾーンを広げるために書くわけです。
私は時々、音楽を言葉で説明をするときに「これ以上は言葉にできない」という意味のことを書くことがあります。
というのは、究極の感情や神髄、本質などは、言葉や文字では到達できないところにあるような気がするからです。
ですが文字や言葉で表現できる限界まで切り込む努力を続ければ、ぼやけてはいても輪郭くらいはわかるのではないか?
ネバーギブアップ・ネバーサレンダー。
この精神ですね。
音楽の持つ素晴らしさを言葉で表現しようという作業をしていると、時々表現をしたい内容がどんどんエスカレートしてしまい、自分が表現できる文字の能力を超えてしまうことがあります。
つまり、その時点では必要な文字が存在ないことになってしまい、自分の書くチカラって、こんなものなのか?と、思い知るのです。
このように文字から乖離しそうになっている瞬間というのは、逆に言えば気分的には最高にクールな状態なのかもしれません。
だからこそ、文字にしたいのです。
毎日「COOLに過ごそう」って思うけれど、現実は「いやおう」なく、襲い掛かってきます。(笑)
だからこそ、時々でいいから、書くことでゾクゾクする快感を味わいたいのかもしれません。
それでも書くことはたくさんありました。
時間に縛られている限り、こうした発想をし、実際に実行することはまず不可能です。
年末年始にかけては、勤労のエネルギーや時間の大半は、渋滞と混雑と少なくない支出を伴って消えて行く度合いが、何故か最高潮に高まるのです。
こうしたことに、鈍感になってしまっていることにさえ、気がつかなくなってしまっている。
これが現実なのです。
昔は人生50年と言いましたが、今ではかなり寿命が延びてきています。
ですが50歳を過ぎると「理想に向かって努力することを諦め」「前向きの人生からおりてしまう」という人は、おそらく90%以上に達するはずです。
日々の満足感がないままに、おかしいことをおかしいと言えず、徐々に変えてゆく努力や工夫さえもできず、時間が過ぎてゆく毎日。
その結果は、いずれ奴隷化するか、諦めておりるかしか、選択肢はなくなるのにです。
ですが、残された道は少ないがゆえに、見つけるのは意外と簡単なのではないでしょうか。
最後にこうしてああでもない、こうでもないと書きながら、最後にやっと一筋の希望を見つけられたことに感謝しつつ、新しい年を迎えたいと思います。
みなさん、良いお年を!