喋るというコミュニケーションでは、アタマの中であらかじめ、ある程度の輪郭くらいは、整理しておかなければならない。
話す場合、適当に喋っているようでも、無意識のうちにアタマの中でまとめながら、超高速で言葉に置き換えているわけだ。
息子は自閉症のため、このアウトプットができない。
たぶん彼のアタマの中で、まとめることができないからだろう。
そもそも、相手にこれを伝えたい、という意志があればこそ、まとめる作業が必要になるわけだからね。
一方で書く場合は、アタマの中で、あらかじめまとめておく必要はない。
思いついたことを適当に書いてから「てにはを」を整えてゆく。
あるいは箇条書きをもとに配置を考えながら文章に仕立て上げる。
など、さまざまなバリエーションがあり、さらに途中で中断したとしても、あとで続きを書くこともできるわけだ。
書くというアウトプットの利点は、それだけではない。
自分のペースで咀嚼(そしゃく)しながら、じっくりと考えをまとめれば、すべてを伝え、思い残すことなく、死ぬことだってできるのだ。
遺言であろうと、遺書は文字で書かれる理由は、こうした理由からではないだろうか。
書くというのは、考えや伝えたいという、目に見えないものを、文字として見える形に変換してアウトプットする技術ともいえるだろう。
おまけにこのプロセスでは、物事を様々な角度から考え、思考パターンが柔軟になるという、思わぬ効果も期待できるのだ。
「書く」というアウトプット形態があらゆる分野で広く使われているのは、足りない言葉を補完し、扱いやすい記録として残せるからではないだろうか。
書く能力を磨くのか、放置したままで過ごすのかは人それぞれ。
もし書くチカラをつけたいのなら、まず書くこと。
とにかく量を書くことだ。
書けば書くほど、相手に伝えたい技術は向上する。
個人差はあっても、それなりにね。(笑)
ただ、気をつけなければならないのは、アウトプットには、インプットが必要だという点だ。
たとえば日記を書く場合、外に出て人と接触をする機会がなければ、ネタ切れとなって、書くことがなくなってしまうだろう。
刺激を受け感動したなどという類の強いインプットは、感動と説得力を伴った強いアウトプットとなり、視覚を通じ人に伝わってゆく。
書くというアウトプット能力を磨き、その技術を身につけるというプロセスに終わりはない。
諦めずに続けていれば、書かれたアウトプットを通して、自然にインプットがわかるようになるかもしれないのだ。
などという手の届きそうな夢を見続けるのも、また楽しからずや。
字余り。(笑)