根本的な変化が必要なのに、それができない、結果に結びつかない、ということは、国という大きな組織に限らず、個人でもよくあることだ。
そうした状態が続くとあきらめてしまい、気力をも失ってしまいがちだ。
無関心は無気力を呼び寄せ、放射能と同じで、見えないがために、じわじわと周りを蝕んでゆく。
人はみな有能な部分と、無能な部分をあわせて持っている。
自分のことでいえば、トレーダーとして、クルマのドライバーとしては、有能だと思いたいが、ゴルファーとしてまた麻雀打ちとしては無能なことは、はっきりしている。
その理由は、ゴルフに対しては無関心であり、麻雀に対しては無能だから。
それまでの仕事では有能であっても、政治家になったら無能になったり、平社員が管理職になった途端に有能になるということはよくあること。
日本は目先の経済に関してはまだ有能かもしないが、自国民を幸せにするという意味では、無能さをさらけ出してしまった。
それでも「いいや俺は幸せだ」と思える人は幸せだ。
いわゆる国という大きな組織の影響を受け続けていると、自分には「かなわない」と感じてしまうのが普通だろうからね。
だが「仕方がない」と思えば、どうしようもなく「仕方なく」なってしまう。
とはいえ「どうしようもないこと」は確かにある。
しかし、だからといって「仕方ない」とそのたびに諦めれば、何をしても無駄だと簡単にあきらめてしまうクセがついてしまう。
日本はこの悪循環に陥っているのではないだろうか。
だが個人なら、それも少しだけでいいのなら、自分の何かを変えることくらいはできるだろう。
誰でも、一度や二度はそうしたいと、ふと思ったことくらいはあるはずだ。
こうした想いを無視したり過小評価してはいけない。
「仕方ない」と考える習慣が、知識への欲望と、希望へ続く道への扉を閉ざしてしまうのだ。
「どうしようもない」とふと思ったときだからこそ、できることがある。
どんなことでもいいから、ひとつ何か変えてみる。
自分のためでも、誰かのためでもいい。
苦しいときこそチャンスなのだと思い込めばいい。
そしてとにかく続けるのだ。
だって、あきらめないぞ、と思うだけでは、悔しいじゃないか。
そのうち、続けていたことが、いつの間にか身についていることに気がつけばしめたもの。
自分だけにしか見えないけれど、諦めなかった勲章は一生光を失うことなく輝き、いつもあなたを励ましてくれるはず。
そして苦しいときの暗闇を照らしてくれるだろう。
下手な鉄砲も、数撃ちゃ一発くらいは当たるはず。
まぐれでもね。(笑)