放射能拡散が続く福島原発事故がいまだに収束できず、さらにこれから長期化する現状で、今後さらに気をつけなければならないことがある。
というのは先日あるトレーダーが東京のマンションを売却、すべてを神戸へ移すため4日ほど上京したのだ。
数日の滞在で彼が感じたことは、東京に住んでいる人は「宗教」を信じる心理と同じ状態なのでは?というものだった。
放射能の危険性はある程度理解しているが、直視すればするほど、現実との矛盾に直面するため、考えたくなくなるというわけだ。
大丈夫、安全だ、みんなもこうしているのだから、と自らを納得させてしまう。
だが1ミリシーベルトが幸不幸の分かれ目になるのだということを忘れてはならない。
あなたの住んでいる場所が、年間1ミリシーベルト以下ならOK。
公的機関の調査では、低い場所を探して測定し、最も低い数字を公表することが多いので、民間の調査結果の方が参考になるはず。
毎時0.16マイクロシーベルトをボーダーラインとして、目安にすればいいだろう。
週刊現代の都内放射線量独自調査
※7月9日号掲載。1時間当たりの放射線量:マイクロシーベルト。
(千代田区)JR東京駅丸の内中央口 地表0.28
(中央区)銀座一丁目交差点 地表0.32
(文京区)文京区役所前 地表0.29
(台東区)JR上野広小路口 空間線量0.28 上野動物園ゲート前 空間線量0.28
(江東区)砂町水再生センター正門前 地表0.28
(渋谷区)原宿の街路樹根元 地表0.26
(豊島区)池袋西口公園トイレ前 地表0.34
(北区)飛鳥公園周辺歩道 空間線量0.27、地表0.30
(荒川区)荒川区役所駐車場 地表0.30
(足立区)足立区役所南館入り口前 空間線量0.26、地表0.45
(葛飾区)水元公園内ベンチ 空間線量0.62 金町浄水場正門前 空間線量0.38、地表0.42
(江戸川区)葛西水再生センター北門前 空間線量0.32、地表0.38
忘れてはならないのは、引っ越しできる人は、すでに安全な場所へ移住しているという点だ。
残っている人の理由で最も影響が大きいのは、家を買ってしまっている、今の仕事を失いたくないという理由だろう。
さらに長年住んでいる人ほど、住み慣れたところから動きたくないという心理も強くなるわけだ。
そして家族や親戚が東京にいれば、自分だけが「逃げる」ようなことはできない、ということになってしまう。
持ち家がある場合で、特にまだローンが残っていると、いわゆる塩漬け状態のため、すでにそれだけで動けなくなってしまっている。
仮に売れたとしても、逆ざやで持ち出さなければならない状態なら、なおさらだろう。
さらに引っ越して今の仕事を失うと、生活できなくなるという恐怖のため、動けない人も多い。
理由はともあれ、すでに経済的に厳しい状態であればあるほど、動くことができる可能性は低くなる。
これが現実だ。
そういう人ばかりが集まっている場所で、放射能の危険性を説き、引っ越しを考えた方がいいと話しても、誰も耳を貸さないだろう。
なぜなら安全なニュースや情報を探し、それを「よすが」に現状を正当化しようとする心理が働くからだ。
放射能は目に見えないため、こうしたすべての要因はさらに加速されることになる。
こういう状態の時に頼りになるのは、自分の持っているセンサーという感受性に加え、想像力と、前向きに考えるモチベーションを持続させる精神力だ。
この部分が鈍くなると、危険だと考えられなくなるうえ、危ないと思っても、面倒で動きたくなくなるのだ。
さらに「低線量被曝が続く」と知らず知らずのうちに「ぶらぶら病」になってしまう確率が高くなるというのが恐ろしい。
さてあなたのセンサーは大丈夫だろうか?
日本の悪夢・核の危機で「ぶらぶら病」に触れたが、最後に肥田舜太郎医師の言葉を引用させていただく。
ぶらぶら病という病気なんだ。これは、医者がつけた名前じゃなしに、患者の家族がつけた。見たところなんでもない。「父ちゃん、畑行って働いてよ」。「じゃあ子供連れて畑行くか」って行って、これ(鍬で耕す)やったらね、30分と持たないのね。「俺ぁもうとってもかったるくて起きてられない。先に帰るからな」って言って、ウチに帰っちゃう。で、帰ると、座敷でゴロッて横になって寢ちゃってるんだね。毎日、そういうことが続くから、家族や、田舎の本家の旦那とかが、「あいつは広島に行って怠け者になって帰ったんだ」と。医者に見せろって、医者に見せても、検査なんぼやっても、病気らしい兆候がなんもないだね。本人がかったるくて動けないっていうだけなんだ。だから、いつの間にかナマケ病=ぶらぶら病で。ナマケ病っていうと具合が悪いからぶらぶらしてるからぶらぶら病。これは、広島・長崎を中心にたちまち広がって。ぼくのところにも聴こえて来るんですね。患者が来ると、やっぱりそうなんだ。
ぼくなんか、一番ビックリしたのは、ダルいっていうのは、自分も経験があるから、その程度のダルさっていうのは分かるよね。ところが、初めて来た患者が、受付では、被爆者って言わないんだ。被爆者、差別されてますから、黙ってて、ぼくの前に来るとだね、私に、「広島から来た肥田先生ですか?」って訊くんですね。「そうだ」って、言うと、安心してね。「私も広島から来た被爆者です」って、初めて言うんですよ。「どうして来たの?」っていうと、「かったるくて動けないんです」って。で、まあ、どんな風に被爆したとか、どこで被爆したとか話しを訊いてるうちに、この男がね、「先生ごめんなさい」って言って、向こう側で、私の机の上でこういう格好(肘をつく)するんです。失礼ですよね、普通は。「えー?」と思ってたら、そのうち、床へね、椅子から降りて、あぐらかくんだ、下へ。「先生ごめんなさい。椅子に座ってられません」。そのうちね、床へね、横になってこうなっちゃう(肘をついて)。「こういう形でしか、私は起きてられないんです」。
■そんなにダルいの......と
「そんなにダルいの?」と。「そうなんです」。それで初めてぼくはね、ぶらぶら病の患者のダルさのね程度っていうのが分かったわけ。初めてこれはただごとじゃないって、思いました。
で。実はまあ広島でね。広島の街の中では、家も何もないし、何もできないから、で、戸坂村(の仮設病院)は、閉鎖になったんです。村の人に迷惑で、学校も始まるしね、それがちょうど12月の半ばだった。それで村の人は、「悪いけど、病院の先生は患者さん連れて、どっか行って下さい」って言うわけだ。どっか行くって言ったって、広島は焼け野原だ、何もないんだ。結局はマッカーサー司令部に連絡をして、そして被爆者と職員がこんなに沢山、行くところがなくて、困ってる。どこでもいいからこれだけの人間が入れて病院の仕事ができるところを1つ配給してくれと。
■国立病院ができたってんでみんな来るわけだ
で、初めて山口県の柳井という市の郊外にある旧い軍隊をもらって、私たちは100人連れてったんだ。ところが、山口県に逃げていた被爆者が何万といるわけだ。それがお医者さんがなくて、(病院が)壊れてたのが、国立病院が出来たって言うんで、みんな来るわけだ。たちまち満員になっちゃうんだよね。たった医者は6人か7人なのに、三千人から四千人。旧い軍隊の跡が、全部(いっぱい)。まだここは出来てませんって言ったって、勝手に布団持ってきて寝ころがっちゃう。暖房がないからね、そこら辺の農家から七輪をもらって来て、そこら辺の古材もらって来ちゃあ、病室の中で焚き火してるんだ。ぼうぼう火の出るね。
そんなところでぼくは仕事してたら、ぶらぶら病の患者が入院して来て、そのまま寝た切りになっちゃうわけね。そうすると、朝から晩まで看護婦が何べんもいかなきゃなんないわけ、そこへ。人手は取られるし、治療法は分らないし。で、そのうち翌日看護婦が行って見りゃ「あ、死んでました!」ってなる。そういうのを何例も見てね一体、なんの病気なんだと、30年間、私はずっと頭の中に持ってた。
東京に出て来てから、東大の先生とか、大学の教授に電話かけたり、患者送ったり色々して、教えて欲しいって言っても、誰もまともな返事をくれたのは、1人もいない。本当なら、「こういう病気は私たちは見たことがない、申し訳ないけれどこういう病気は知らない」って言うのが一番正直なんですね。そう書いて欲しかったの。ところがね、自分の経験では、これは病気ではないというのを書いてくる。こんな乱暴な話がありますか! 自分の知らない病気はね、この世の中には1つもないんだと。あとは全部俺が知ってると。こういうのが大学教授なんだ。もう腹が立ってね。テメエは人間なのか、と思いましたよ。実際ね、苦しい人間を、紹介状をつけて、当時のことだから、お金がかかるでしょ。タクシーなんかないころですよ。ムリムリね、大八車に乗せたりなんかして、家族は、病院まで連れてくわけじゃない? それで何時間も待ってね、やっとこさ診てもらったら、「病気じゃありません」なんて、飛んでもない話だ。だからもう私は日本の偉い先生とかぜんっぜん信用しないです。そういう人間が何人もいるわけだから。
ぼくは、そういう先生にもらった、「病気ではありません」って診断書、取ってありますよ。生きてたら持って行ってね、「おまえ、このとき、こんなこと言ってたんだぞ」って言ってやりたい、ホント。まあ生きてる人は一人もいませんよ。いま生きてたら120歳か130歳くらいだから、いませんよ。