2010年12月24日 のCoolに過ごそう

クリスマスプレゼント

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もうすぐクリスマス本番。

モノが溢れているときにこそ必要ななものは、こういうものなんじゃないの?

 1224christmas.jpg

というわけで、日本に配信されるほとんどの写真を撮影しているシアトル在住の友人からのメールをご紹介。

新聞やネットのMSNスポーツ・Yahooスポーツをはじめとして、Livedoorスポーツなどに掲載されているイチローのシアトル本拠地戦の写真は彼の撮影によるもの。

ただ、サンスポや日刊スポーツなど、スポーツ紙の多くは、自社カメラマンが撮影したものを使うわけですが、彼らがカバーしきれない部分は、彼の配信写真が使われることがあるというわけです。

このように彼は、いわゆるプロカメラマンなのですが、メールを読むと彼が 「類まれ」 なるライターでもある、ということも分かります。

  

 

僕が小学生そして中学生の頃、歌手になった男性ポップ歌手の殆どはバンドボーイをやっていた。
音楽が好きで好きでしようがなくてバンドに近づいている内にチャンスが与えられるのだ。

  

それまでは、無休に近い小間使いや楽器運びの仕事につく。
そうこうしている内に何かのキッカケでチャンスが与えられる。
そして、そこから音楽の道に入っていく。
そのようにして大成した歌手はいくらでもいる。
坂本九もそうだった。

 

好きなことに近づいていないと居ても立ってもいられない、だから、いつも間近に身をおいている。
僕が自転車の商売をやっている時もそういう連中が多くいた。
ブラッとやってきて、無休で仕事を手伝ってくれる連中なんて後を絶たなかったのである。

 

感謝の気持ちを込めてカリフォルニアやフィリーで開催される自転車の展示会に連れて行ったりもした。
もちろん無給である。
その上で、忙しく大変な仕事を手伝わさせられることになる。
でも、彼らは、そうして食い込んでいることに嬉々としている。

 

そして、ある日、営業でもマーケティングでも人を雇わなくてはならない時がきた時、その男に声をかける。
バンドボーイが、歌ってみるか?
と打診されることに似ている。

 

僕は、一時、従業員25人までの会社にしたことがあったが、自転車の専門知識が必要な仕事の募集をしたことがなかった。
いつも会社に出入りして、いっしょに自転車を語ったり、ライドにでたり、新製品の意見を交わす人はいくらでもいたからだ。
マニアックな仕事分野なので自転車への執着心と深い知識経験が求められる。
無垢な状態の新人に一から教えて、、という現場ではない。

 

この方法で、自分の道を貫く人は多くいる。
それは今も昔も変わらない。
こういう執着心が、雇う側にとっては、その人のエッジ、他よりも光ってみえることになる。

 

マリナーズの球場で声をかけられることがよくある。
「どうしたら野球のカメラマンの仕事につくことができるのか?
野球が駄目だったらサッカーでもいいんだが、教えて」
「カメラでなくとも記者でもいいんだけれど、どうしたらいいの?」
中には「カメラマンになりたいのだけれど、どんなカメラを買ったらいい?」というのもある。
その度に僕は、ちょっと!というか、ダイブ!違うんだよなあ、と心の中で思ってしまう。

 

今日、タクゥイラの日本食レストランで家族でランチをしていたら、ウエイターをしているA君が僕に挨拶をした。
「来季から、TNスポーツのM選手づけの記者をやることになりました。今後ともヨロシクお願いします。」というもの。

 

この青年は、生活費をウエイターの仕事でまかなって、シーズン中は、ミニマム・飢維持で野球場で日本から観戦にやってくる日本人客の案内や車椅子を押す、という下積みの仕事についていた。我が家族も、そんな姿の彼を頻繁に目にしてきた。

 

野球が好きで好きでいても立ってもいられないからなんとか、マリナーズの野球場の末端に食いついていたかったのだ。
最低の日給でも、野球場の臨場感が伝わってくる職場に彼は大満足だった。

 

そんな彼がどうして記者に?
その理由はカンタン!
野球好きが高じて、シアトルの邦字新聞にマリナーズ記事を数年間書き続けていたので、M選手番の記者が必要!となった時、すぐに候補にあがる人は彼一人しかいなかったのだ。
その場所にいなければチャンスもめぐってこないのである。
J社のM選手番のカメラマンは、たまたま、彼が別の仕事でシアトルにきていたので、僕がつなげたものだった。

 

A君は、特別、メディアの仕事につきたい!
と具体的に望んだことはなかった。
純粋に野球に接していたかっただけだ。

 

A君にしても、まさか発行部数1000ほどのシアトルの邦字新聞の仕事から数十万部の日本のポピュラーなスポーツ紙の仕事につながるとは夢にも思わなかったことだろう。
ただ、一筋に野球に食いついていただけだったのだ。

 

彼のようにして、好きな道に進んで行った人を何人も知っている。
ミュージシャンのリー・オスカーやマウンテンバイクのパイオニアの一人のジェフ・リンジーもそうだ。
ジェフは、マウンテンバイクが株式会社化してからもカスタムのバイクで続けていたが、その昔にはまっていたガラス工芸の道を進んだ。
今では自社ビルを建てるほど成功している。
アメリカに、僕はこういう男たちを多く知っている。

 

そんな僕だからか、どうしたら、カメラマンになれるの?
どうしたらライターになれるの?
と質問してくる若者たちに出会う度にウンザリしてしまう。

 

アタマで考えるノウハウじゃあないんだよ!
感情が高ぶって、それが身体をその道に推し進めるんだよ。
と言いたくなるのだが、それさえもがノウハウと受け止められるだけだろうから何も言わない。
このような青年達の表情や雰囲気は理性的。
サメテいる、、というか燃えるものを持っていない?というのだろうか、エネルギーが伝わってこない。
目の輝きも感じられない。

 

心の赴くところに従って進む、その気持ちの選択と高ぶりが必要だ。
これは僕が主張してきたことなのだが、今日、A君から挨拶された時、心の声を押し殺さず、
低所得をモノとせず心の道を進んできた彼が次のステップに足をかけたことが嬉しかった。
ここまで進むと、次の日本人選手へともつながっていくし、他社にアキがでた時にも候補にあがる。
野球記者として絶対的な位置を定着させることであろう。

 

小野沢さんは、自転車とか書き物だとか撮影だとか、好きなことをやっているので羨ましい!
と多くの人から言われてきた僕だが、彼らが気がつかないことが一つある。
僕が、これらの仕事を就職として選んではいない、ということだ。

 

現実は、好きなことをやっていたいが為にリスクをモノともせずに犠牲も払って進んできただけだったのだ。
アンタタチは、分別を口実に、利口にそれを避けて、安定収入を選んだでしょ?
と説明するのだが、ピンと来る人は少ない。

 

A君は、新卒年齢ではないにも拘らず、安定収入をモノとせずに、最低賃金で野球の近くにシガミツク道を選んだのだった。
けっして、金銭的なリッチにはなれないだろうが、その代わり、心の満足度や充足度は高い。
僕は、三つの分野の仕事からそれをよく知っている。

JCBG00.jpg

小野沢さんとの出会いは、この雑誌の取材でした。
そういえばもうすぐ10年になるんですね。

彼からの取材を受けている最中、私は彼のことをライターを兼ねているプロカメラマンだと思っていたのです。
こうした取材では、インタビューアーとカメラマンとの二人セットが普通でしたから、書けるカメラマンって珍しいなあ、と思ったことを覚えています。
今から思えば、彼がこれだけ書ける人だとは、夢にも思っていなかったわけで。(笑)

  

彼はストレートの速球で、真っ向勝負をかけるタイプといえばわかりやすいでしょうか。
きわどいところへ変化球ばかり投げる多くの日本人とは全く違っていたためでしょう、強く印象に残る人でした。
それ以来彼とは同世代の友人として、今も続いているわけですが。

 

彼のメールを読むと、なるほど、どの世界も同じなんですね。
私のトレードの世界との出会いも然り。
仕事がなくなり、出会ったパソコンを使った株のトレードにすっかり填り、これで稼げるなんて夢みたいなハナシだ、と飛びついたのです。
ですが、メソッドも何もないため、トータルでは勝てない日が延々と続いたわけですが、必ず勝てる方法があるはず!と信じ続け、ありとあらゆることを試したのです。

 

この仕事が何よりも素晴らしいのは、自分の予測通りにマーケットが動き、利益を手にした瞬間です。
沸き起こる、いわゆる内から漲る自信と誇りは、何物にも代え難く、自らを魅了するのですから堪りません。
当然のことながら、すっかり填ってしまったわけです。
おまけに、人間が本能的に持つ「ギャンブル欲」を満たしてくれるのですからね。

 

一度勝つ味を覚えると、やめられなくなりズルズルと填ってゆきました。
でも填って何が悪いのか?
トータルで勝てばいいわけです。

 

ですがどうやっても勝てず、負けは溜まるばかり。
結局一ヶ月1万ドル負けたらやめる、というカミさんとの約束まで、あと一歩というところまで追い詰められたのです。
そこで考えました。
どうしたらこれ以上負けずにすむのか?


選択の余地はありませんでした。

 
実トレードをやめ、いわゆるシミュレーショントレードを徹底してやり続けたのです。
 

というわけで、今に至るわけですが、負けないためにと、あらゆる試行錯誤を繰り返しながら突き進むうち、様々なことがわかったのです。
それらは、事前にはまったく予想できないことばかりでした。

 

のちに様々なオリジナルなトレード手法を考えついたのも、こうした体験があったからではないでしょうか。
勝てなければ家族を養ってゆくことができないため、背水の陣を張らざるをえなかったのです。
どうすれば最後の砦を守りきることができるのか?
この執念が様々な運を引き寄せたのかもしれません。
これこそが、今の日本でトレーダーを目指す人たちに、最も欠けている部分なのかもしれません。

 

ですが、今でもごくまれに、同類のタイプに出会うことがあります。
トレードを教えていて良かったと、つくづく思える瞬間が突然やってくるのです。
昔の自分の心境が投影されたかのようなその熱い想いを持つ人は、すぐにわかるもの。
言葉ではうまくく説明できませんが、それは「伝わってくる」ものだからです。

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